私の宗教論 私は、多くの文献を読み、到達した本質は、西田幾多郎『善の研究』における宗教論、すなわち、「宗教は、人間にとって、空気のように、なくてはならないもの」で、曹洞宗における、「只管打坐」、すなわち、「座禅に意義や条件を求めず、何かを得ようと思ったり、悟りに達しようと意気込んだりせず、端的に座禅を実践すること」で、宗教は、意識しなければならないほど特別なものではなく、空気を吸うがごとく、日常におけるごく自然で当たり前なことなのです

はじめに

私は、20歳台後半に東京理科大学大学院理学研究科で物理学(場の理論、素粒子論)、50歳台後半に東京大学大学院総合文化研究科で社会学(科学技術社会論)、60歳台前半に東京大学大学院人文社会系研究科で宗教学(中世ユダヤ思想、比較宗教学(ユダヤ教、ヒンドュ教、仏教、イスラーム)、宗教社会学)を学び、学問の本質(哲学 + 宗教 = 思想)が何であるか考えてきました。

曹洞宗雲水への道

私は、主に、中世ユダヤ思想を学び、フィールド研究として、シナゴーグ(ユダヤ教の教会)に通うつもりでしたが、日本には、広尾と横浜にしかなく、距離的に、水戸から通うことができなかったため、仏教の中で、ユダヤ教と同様、厳しく原理原則を厳守する曹洞宗に出家することにし、水戸市の禅寺で出家し、福井県の曹洞宗大本山永平寺で修行しました。

私の宗教論

私は、多くの文献を読み、到達した本質は、西田幾多郎『善の研究』における宗教論、すなわち、「宗教は、人間にとって、空気のように、なくてはならないもの」で、曹洞宗における、「只管打坐」、すなわち、「座禅に意義や条件を求めず、何かを得ようと思ったり、悟りに達しようと意気込んだりせず、端的に座禅を実践すること」でした。
宗教は、意識しなければならないほど特別なものではなく、空気を吸うがごとく、日常におけるごく自然で当たり前なことなのです。


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