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妊娠・出産を経験して母性について考える

今年の1月に息子を出産した。息子と共に大学に顔を出すと、T先生に、「妊娠・出産を経て、ご自身はどのように変化しましたか?」と聞かれた。とっさに出てきた答えは「体」の変化だったが、質問の本質は「心や思考」の部分だとすぐに気づいた。しかし、すぐに答えられなかった。

妊娠・出産とは、人生においてこれまでに経験したことのない体の変化を感じるプロセスである。想像以上に伸びる皮膚、無尽蔵に続く食欲、急に鼻血が出てくらっときたり、内部から蹴られてウッと声が出る痛み、最後はとてつもない大きさの頭が体から出てくる、、。そのように体の変化が著しいからこそ、自身の内面の変化にはなかなか気がつかないように思った。

それは仕方のないことである。他者、だけれども分かち難い何かでつながっている者の存在を四六時中感じながら、十月十日を過ごしてきたからだ。その期間を通して、私は「そこから逃れられないという受動性だけでなく、そのなかでわたしも主体的に生きるという能動性を開か(津守、1987)」せてもらった。間主観性を身をもって体験したというか、感じさせられたというか。子供が自ら動きはじめるという行為は、産まれてからではなく、母親の胎内にいる時から始まっているのである。これを主体性とよぶならば、私の体内で息子の主体性は徐々に増し、それが最大に発揮される文脈で、私の体の中から出てきたのである。産まれ出た時の気持ちは、慈しみ、とかいう美しいものでなく、彼(子供)は私の体の中で好き放題動き回っているけど、私は外側からその彼の動きを制限するという間主観的なジレンマから、やっと解放されたという清々しさが双方にあったように感じた。

出産後、放っておけない存在が常にそばにあるという状態が続く。何よりも、授乳という行為は、間主観的な彼との関係を常に再認識させてくれる。一度、母乳が出にくくなった時に授乳をやめようかと考えたが、彼とのつながりが切れてしまう気がして少し寂しく感じた。刹那的な感情だけでなく、哺乳類としての生き方を最も感じさせてもらえるこの行為を、もう少し経験しておきたいと思ったので母乳の提供を続けることにした。

産後ケアで訪問した助産院で、「私たち、哺乳類ですからね」という言葉を助産師さんからかけられた。哺乳という行為には妊娠の延長のような印象がある。特に出産直後で体全体がまだボロボロの時から血液(乳)を子に分け与えなければならないという仕組みだからそのように感じたのである。今でもなお彼とは母乳を通してつながっているが、母乳の割合が減ってきているので、妊娠の延長という感覚はない。こうなると、彼との一体感は徐々に減ってきており、間主観的であることを「強いられる」ことになる。

ある日、保健士さんが自宅を訪問してくださった。寝れない、しんどいと辛がっていると、「お母さんがこうしたいという欲を捨てないと」と言われた。これは、すべてのものごとが間主観的なジレンマにある状況にもう一度身をおけ、ということではないか。体は離れているけれども、心や頭で彼と分かち難い関係になるという新たな状態に向かわなければならないと。「私」は常に誰かと共にある。そうなんだけれども、やはり「私は私」であり、どちらかの欲を優先したりされたりという交互の関係性でしか成立しないように思えた。

以前に、赤ん坊を抱えたニホンザルのお母さんが、ワーワー泣き喚く赤ん坊をよそに、畑の黒豆をむしゃむしゃ食べている様子を観察したことがある。泣いている赤ん坊が何らかの危機に陥る(赤ん坊を食べようとする猛禽類に襲われるとか)可能性もあるのに、母親の食欲のほうが赤ん坊を抱えることよりも優っているようだ。母親は食事を終えると、赤ん坊をさっと抱えて歩いていった。赤ん坊は、母親がそばにいない不安をひとしきり感じた後、抱きしめられた安心感と、授乳で腹が満たされる幸せに身を委ねる。そのシーンを思い出した時、人間は「母性」なるものにとても支配されているように感じた。まるで聖母のように、乳を与える子供を優しく見つめる姿・・。常に子供の欲に敏感に反応し、子供が満足するように私のもつ全てを与える。そんな母性は私にはなかった。私には、母性とは、自身が生きることと子が生きることの欲が目まぐるしく相互する葛藤を生きることであると感じた。

マルクス主義フェミニズムにとって母性とは、男性/女性の階級構造を覆い隠したまま女性を「愛の労働」、つまり夫と子どもへの献身として家事労働に向かわせるイデオロギー装置である

(元橋、2021「母性の抑圧と抵抗」)

このような葛藤を抱くのは当然で、大学で教員として働き、社会の中で男性とか性別に関係なく働くことが当然である代わりに様々な社会参加の機会を得てきた私にとって、お母さんの欲を我慢しなきゃ、というセリフは「女性は産み育てる存在で、ケアする存在である」という母性に縛りつけられているような感覚があったのだ。

ただ、先に述べたニホンザルの母子の事例をもう一度思い出してみると、実はニホンザルには人間でいう父親的存在はいない。子どもを産み、ケアし、育てるという存在は、母親しかいないのである。ある程度の年齢になるまでは、母親がいないと子どもは死んでしまう。人間に近いと言われているチンパンジーでも、父親は明瞭でない。よって、産まれた子をケアする存在として「父親」を想定できるのは、人間独特の文化である。人類の進化のプロセスで、1人の父親と母親という形が社会的に規定されてきたのは極めて近代的であると考えると、現代の父親の存在は非常にありがたい。

私たちは、人間であると同時に哺乳類であり、霊長類でもある。妊娠・出産という行為は、我々が哺乳類・霊長類であることを感じさせてもらえる大きなイベントである。母親が「母性」に縛られて「私」を見失わないように、子供との関係を構築する日々が、子育て・子育ちなのではないだろうか。

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