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“ガチ恋”で後ろめたくなるのはなぜか?|デミロマンティックの私に見える世界

中3〜高2までの間、私は、後の人生の指針になるような“ガチ恋”をしていた。何を言っているんだと思われるかもしれないけど、これは至って真面目な話だ。

「好きな人」ってなんだ?

「恋愛」というものがなんであるのか、私にはなかなか理解できずにいた。

小学校中学年くらいから、「〇〇君が好き」と話す女子が増えて、もれなく私も誰が好きなのか聞かれたけど全くよくわからなくて、「△△君はまだマシ」とかこれまたよくわからない回答をして、マシとは? みたいな感じで笑われた。“好き”ってどういう感情なのかが本当にわからなかった。

みんなが話している恋愛の話に混ざりたくて、クラスメイトの男子の中から好きな人を探そうとして、この人のこともしかして好きかも? と思ったこともあったけど、なんというか、ほかの人と比べて必死度が全然違くて、“好き”ってもっと強い感情なんだなと察した。

音楽が好きで、小5くらいからアーティストに夢中になることは度々あった。ときめきは感じていたし、女性アーティストと仲良く話しているのを見ると嫉妬したりなんかもしたから、これが恋愛感情なのだと、学校という狭い世界で限られた異性にしか出会ってないから身近に好きな人ができないだけなのだ、と思い込んでいた。今思えば、嫉妬の理由は恋愛感情ではなくて、当時歌手になるのが夢だったからアーティストとして共演している方々が羨ましかっただけで、推しのアーティストも半年〜1年くらいのスパンでコロコロ変わっていたからただのミーハーだったと思う。(下記の記事もぜひ読んでみてください!)

どんな人が好きなのかを気づかせてくれた芸人さん

音楽以外にもお笑いが好きで、テレビっ子だった私は、その日とある芸人さんをテレビで見た。その方は「再ブレイク」と紹介され、毎日のようにバラエティ番組に出演されていた。

「こんなにトークが面白いのに、なぜ“再ブレイク”なのだろう? ずっと売れててもよかったんじゃないか?」という疑問が頭から離れず、気になってその方が出演されている番組を意識的に観るようになった。

『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「ムダ・ベストテン」というコーナーにその方が出演されたことがあった。役に立たない特技を披露する企画で、「鈍感舌」ですと言ってレモン汁を飲んだり激辛カレーを食べたり、そこまでは順調だったのだけど、最終的に熱々小籠包を早食いする流れになって、味覚とは関係ないから明らかに痩せ我慢をしていた。それが面白すぎてテレビの前で大爆笑するんだけど、同時に、体を張らなくてもトークで十分笑い取れるのに全力で頑張っているところがものすごく格好良く思えて、「またすぐに飽きるかもしれないけど、今日からファンになろう」と思ったのであった。

再ブレイクしたばかりの頃というのは、「あだ名」「毒舌」キャラを全面に押し出していたときのこと。『ロンドンハーツ』の格付けの企画に出れば最下位ばかり。好感度ゼロ、むしろマイナス。ところが、私にはどうしても悪い人に思えなかった。

今でこそ、本当は優しくて人格者だということが浸透していて好感度も高いと思うけど、私は当時からそういう人間性をなぜだか感じ取っていた。

飽きっぽくて、どうせまたすぐに違う人のファンになるだろうと思っていたのに、中3から高2までの3年間、ずっと夢中で追い続けていた。今までとの違いはなんだったのだろうか?

好きなところを挙げるとキリがない。売れても謙虚で庶民的なところとか、番組によって毒舌のレベルを調整しているバランス感覚とか、意外とクイズが得意で常識人なところとか、ビジネスライクな風に見えて、実はほかの芸人さんのネタとかラジオをものすごくチェックしているお笑い好きなところとか、歩きタバコ注意したいけど怖くて出来ないって悩んでいるところとか。私は、その方の生き方や人間性に惹かれていたのだ。

とはいえ、さすがにその方と結婚できるとは現実的に思わないので、「似ている人を探そう」と次第に考えるようになっていった。

“ガチ恋”がきっかけで同級生を好きになった

そう思うようになってから、目の前の席のクラスメイトが気になるようになった。グループワークで話す機会が増えてから、1年のときの遠足の班が一緒だったときのこと、文化祭で私の歌を聴いて「良かったよ」って声かけてくれたことも急に思い出した。頭が良くて辛口キャラなんだけど、スクールカーストとか気にせず誰とでも仲良くするような心優しい人で、あれ?ちょっと似てるかも?って。

私の高校は3年間クラス替えがなかったから、2年間かかって、ようやくその人のことが好きだと気がついた。正真正銘、どこに出しても恥ずかしくない、文句のつけようのない初恋だった。

もうとっくに“ガチ恋”は卒業したけど、今でもその芸人さんは理想的な人だなと思っている。

最近では、『有吉の壁』の「一般人の壁」というコーナーで、“大人になった鈴木福&寺田心が体に大きなタトゥーを入れている”というボケを若手芸人さんがしていたときに、そんなわけないだろ! とかショックだわ! とか言わずに、「今どきなのかな、こうなっていくかもね」とコメントされていたのがとても印象に残っている。時代の流れに沿って、見た目いじりとかもほとんどしなくなったし、そういう視野の広さやリベラルさを持っていて、他者を思いやる心を持っている人が、私の好きなタイプなんだろうなと今でも実感する。(名前を明かさずに書いてきたのに番組名で答え合わせになってしまった…)

なぜ“ガチ恋”は揶揄されるのか?

デミロマンティックを自認して、能動的に好きな人を探すことをやめた今、そもそもなんで身近に好きな人を作ることに努力をしなくてはならなかったのだろう? とも思う。恋をして、付き合って、結婚して、そういうルートは当たり前でもなんでもない。

大人になったら現実を見なきゃいけないとか、理想が高すぎるとか言われるけど、なぜ現実を見ること=パートナーを持つこと、になっているのだろう?

デミロマンティックを自認してから、私は恋愛に囚われて生きるのをやめることにした。心のままに生きていると、ハマると徹底的に深掘りしてしまう性分から、ソングライターさんの思想的な部分にものすごく惹かれたりすることがあって、まともな恋愛経験もないくせにそんな自分が嫌にもなる。

でも、無理に恋人を作ることは、世間体を保てるというメリット以外には、自分の幸せにつながらないことも自覚している。(マッチングアプリを使ってみた話はこちら↓)

付き合うことが人生の正解ではないし(であればリスロマンティックも否定することになる)、好きな人が芸能人だろうが、アニメのキャラクターだろうが、人に迷惑をかけるわけじゃないし、本人が幸せならなんだっていいと思うのに。

私は、有吉さんのことを真剣に好きにならなければ、そもそも自分のことを理解するのも難しかったと思うし、人を好きになるという感覚もずっとわからないままだったと思う(わからないならわからないで何も問題ではないのだけど)。

なんで“ガチ恋”は後ろめたいものなのだろう? 大人になると、痛い人だと思われてしまうのだろう?

自分の幸せは自分で決めるものだし、自分の生き方に自信が持てない理由が“他人の評価”ならば、他人の評価を形成している社会の方を変えたいと思うのだ。

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恋愛しない人が浮かない世の中に変える活動をするために使います。エッセイ以外にも小説を書いたり、歌も作っています。