生を強いることの残酷さ

安楽死を取材したドキュメンタリーを見た。

共感力に自信はないが、感情移入はできる。
自分に置き換えて考えるだけで胸が張り裂けそうな感情になった。
見たことを後悔するくらい。
死について真剣に考えることがあまりなかった、考えないようにしていた、のほうが正しいかもしれない。
考えないですむ、ということは幸せなことだと思った。
ドキュメンタリーを見てから時間が経ったけれど、いまだに考え続けてしまう。

取材を受けていたマユミさん。
希少ながんで治療法がない。進行が早くて悪性度が高い。
治療をしても治る見込みがない。
最後に願うのが安らかな死だけ。
その手段として安楽死を選ぶ。

苦しみが増すだけなら
病で正常な判断ができなくなる前に
自分が自分でいられるうちに

同じ境遇になれば私もそう思うかもしれない。

彼女は自分がこの世を去ったあとのことも考えていた。
子供たちのイベントの都度渡すための手紙も用意していた。
お世話になった方への手紙と自身のお別れ会の案内まで送っていた。
理知的で仕事ができる方だったのだろう。意思の強さを感じた。短かったけれど彼女の人格が伝わってくる映像だった。

誰かの選択を尊重できるか

私は彼女の選択について理解できる(つもりになっている)
逆に、私の家族がそういう選択をしたいといった時
私はそれを尊重できるだろうか。
もっと生きていてほしいと思うのは、本当に相手のことを思ってのことなのだろうか。
私は相手を失うことが怖いだけなのだろうか。
分からなくなった。

結婚する前から考えると8年くらいの付き合いになるけれど、パートナーの存在はもう私の一部になっているような感覚だ。
その相手がいなくなることは、自分自身の一部を失うことと同じだ。
もっと生きていてほしいというのは、自分の一部を失いたくないというエゴなのではないか。
相手が救済だと思っている選択を否定してしまうのははたして正しいこと?

相手が考えに考えて、悩んで結論をだしたものを安易に否定はできない。
私がそれについて考えるよりも、本人がはるかに考え抜いたものだろうから。
私は、自分の人生は自分で決めるものだと思う。
他人の人生に口を出すことはしたくない。
できたとして"私はこう思う"とぶつけるだけ。
それでも相手が選んだことなら受け入れたいと思う。

安楽死をどう思うか

私はもともと安楽死には肯定的である。ドキュメンタリーを見て、よりそちらに傾いた。
(ちなみにこのドキュメンタリー自体には賛成・反対どちらかに偏った意図はない)

安楽死が導入されれば、いずれ他人からの圧力によりそういう道を選ばされる人たちが出てくる、つまり悪用されるのでは、という話があったりする。
実際に今回のドキュメンタリーに出てきたスイスでは、どうなのだろうか。

スイスでは、医師など第三者が患者に直接薬物を投与するなどして死に至らせる「積極的安楽死」は法律で禁止されている。認められているのは、医師から処方された致死薬を患者本人が体内に取り込んで死亡する「自殺ほう助」だ。

自殺ほう助を受ける条件は団体によって若干異なるが、大まかには以下の通り。
・治る見込みのない病気
・耐え難い苦痛や障害がある
・健全な判断能力を有する

自殺ほう助以外に苦痛を取り除く方法がないこと、突発的な願望でないこと、第三者の影響を受けた決断でないことも考慮される。

自殺ほう助を受けるにはまず団体に会員登録(年間40~80フラン、約4600~9200円)し、医師の診断書や自殺ほう助を希望する身上書を指定された言語(英語・独語・仏語など)で提出する。団体の専門医が審査し、認められれば許可が下りる。申請から自殺ほう助に至るまでは通常数カ月かかる。

自殺ほう助は通常、医師から処方された致死量のバルビツール酸系薬物を患者本人が点滴のバルブを開けるか、口から飲み込んで体内に取り込み、死亡する。スイス国内居住者では自宅を実施場所に選ぶ人が多い。

年間1500人超が選択 スイスの安楽死 - SWI swissinfo.ch

専門医の審査があり、それに認められなければならないし、条件も厳しい。
つまり万人ができるわけではないのだ。
こういうハードルを設けて運用している例があるわけで、それを取り入れればいいと思うのだけれど。

それに悪用されるから一律ダメというのは乱暴すぎる。
自動車が危ないからといって全面禁止にはならないだろう。
適切に運用するために法律による制約を課している。
どこまでなら適用していいかの議論くらいはもっとオープンにしてもいいと思う。

マユミさんは、もともとは取材を一度断っている。その後、今の日本の安楽死に関する制度について思うところがあり、番組に協力したいという気持ちになったという。
なぜマユミさんが取材を受けたかを考えれば、少しでも議論が進むことを望んでいたのではと思う。
取材したディレクターの方もそういう思いのようだった。

生を強いることと死を強いることの本質は同じ

病気で耐え難い苦しみに耐えているけれど治療の見込みはなく、これから死を待つだけの人。
彼女は、生きられるなら死にたくないと言っていた。どうせ死ぬのならせめて安らかにと願う気持ち。
私のように健康な人間たちが、苦しんでいる人の気持ちなんて真に理解できるはずがないのに、"頑張って生きろ"みたいな言葉がよくはけるよ。
私はそんな方たちに無責任に生きろなんていえない。
死を望む人に生を強いること、それは生きたい人に死を強いることと同じだから。


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