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当事者の見る、米国福音派のイスラエル支持

(写真の出展:Prime Minister Benjamin Netanyahu speaks at the Evangelical Christian movement and a mission of approximately 800 members of Pastor John Hagee’s Christians United for Israel (CUFI) organization, in Jerusalem on March 18 2012. (Amos Ben Gershom/Flash90)

 私が、島田教授と飯山博士に深い信頼を寄せていますが、今回の番組で、さらにその信頼が増えました。

 それは、日本では、ほぼ無視されている内容を触れていて(下の動画の9分辺りから)、「キリスト教の福音派が、いかに米国政治に影響を与え、対イスラエル政策にも影響を与えているか。」について触れているからです。もちろん、日本でも取り扱われている内容なのですが、当事者である、米国の福音派教会、かつイスラエルを愛する教会のグループで教育を受けた者として、間違ったことを言っていないと確認できます。

 飯山先生は、イスラム思想研究者、つまり異なる畑にもかかわらず、福音派にある聖書信仰を、歪めることなく平易に説明しています。「素直に、聖書の言葉をそのまま信じ、受け入れている」ということです。主なる神が、アブラハムに、ここをあなたの所有の土地とすると約束されているから、ユダヤ人が帰還をすることにも好意的であるし、それを後押しする政策を、ある国が行うならば、それは支持するということです。

 この素朴さ、純粋さと言ったらよいでしょうか、それ以上でも、それ以下でもありません。政治的ではなく、宗教的な理由なのです、と言われたのも、どんぴしゃり、です。多くの人が、陰謀論まで担ぎ上げて、いろいろな情報の断片を継ぎ合わせて、勝手なストーリーを作り上げているのですが、そんな難しいことを考えていないのです。

イエスの再臨(救いの完成)に至るシナリオ

 次に、飯山先生が説明している、「イエスの再臨の時に、そこにユダヤ人が住んでいなければならない。」というといことも、"ほぼ"当たっています。「ほぼ」と言っている部分をご説明します。

 一つは、福音派のキリスト教会が必ずしも、すべてそのように解釈しているわけではないということです。聖書には、ユダヤ人が主なる神に立ち返る中で、主が約束の地に連れ戻すという約束が至る所にあります。そこで解釈が分かれます。現代のイスラエル国は世俗であり、多くの人が神を信じていません。主に立ち返っているわけではないのです。ですから、今の世俗の国が聖書預言の成就なのか?という疑問を抱く人々も、福音派の中でも一定数います。厳密に言えば、私も、今のイスラエルをもって、預言が完全に成就したと思っていません。

 しかし、さらに聖書を調べていくと、主に立ち返って、それで世界から離散の民が帰還するという預言だけでなく、すでに帰還して、そこに神の霊が注がれて、主に立ち返るという預言もあるのです。つまり、帰還している時は、まだ主なる神に立ち返っていないという状態も、聖書に預言されています。ここにおいて、飯山先生の説明は正しいです。

 しかし、二つ目に、福音派の教会がイスラエルを愛して、支援しているのは、そのような細部の聖書預言の解釈に立脚しているわけではありません。初めの、「純粋、素朴」といういうのがキーワードです。主が、イスラエルをこよなく愛し、この民を選ばれたというところです。そして、創世記12章3節にあるように、イスラエルを祝福する者が、祝福されるという約束があるためです。主の愛された民を自分たちも祝福し、愛するということに、立脚します。

 そして、彼らが、近代に入ってどっと世界から帰還を始めて、国も建てられ、今に至る姿は、まるで、自分たちの信じて、毎日読んで、祈っている姿に重なるのです。だから、支援できるところでは支援します。

 しかし、それをもって飯山先生の説明が間違っているのではなく、確かに、イエスの再来の時に、ユダヤ人たちが主に立ち返る、そのシナリオの中で、確かに現代イスラエル国が舞台であり、神に用いられているということは、はっきりと見て取れるので、それで共に喜んでいる、という事です。また、苦しんでいる時は共に苦しみます。これが、イスラエルに寄り添う、信仰的な原動力です。

聖書の思想は、一貫して「神が主権者」

 日本においては、福音派について論じている専門家の言っていることが、めちゃくちゃです。その最たるものは、「イエスの再臨を可能にするために、シオニズムを後押ししている」というものです。これは、キリスト教の信仰の前提を、根本的に誤解していると言わざるを得ません。人間の所為で、神の働きを進ませるという考えは、聖書にはありません。

 神が主権者であり、神がご自分の事を行われるのであり、主の再臨については、父なる神が定めておられることなのだとして、完全に神の領域なのです。人がいつ生まれるのか、いつ死ぬのかも神が定めておられるのと同じように、人がとやかくできるものではありません。キリスト教は、人には何もできなくなっている、救いようがない状態のところに、神の一方的な好意、恵みによって、キリストにあって私たちを救ってくださる、というのが主要なテーマです。

 神と人と取り替えて、神のところに人を置いたのが、フォイエルバッハという哲学者であり、それに基づいてマルクスやエンゲルスが、共産主義の思想を掲げました。これこそが、反キリストの思想であり、信仰的な言葉を使わせていただくと、「冒涜的」ですらあります。私たちの信仰は、人間中心の世界観と対極にいます。

 さらに、イスラム教とも違います。善行によって天国に行く、と、私たちは考えていないのです。聖書は徹底的に、人は善を行うことさえできない、アダムが罪を犯して以降、人が自分で救うことができなくなってしまった。だから神がその深い憐れみによってのみ、キリストを遣わし、その十字架と復活のわざによって、私たちを救うようにされた(これを「福音」と呼びます)。私たちは、この神からの贈り物を受け入れ、信じることだ、としています。

 専門家が、信仰を持っていおられないで研究するのは、もちろん自由ですが、ご自身のフィルターを通して、私たちの信仰を真逆に伝えるのは、研究者として不誠実ではないのでしょうか?そのまま、有体に伝えていただきたいものです。

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