安倍首相の一周忌から、指導者の死について想う
ツイッターで、どんどん、安倍首相の一周忌のことが出て来て、「ああ、もう一年経ったのだ」と思った。私個人は、自分が悲しいと思うことを心の中で封印してしまう傾向がある。もしそれを心から出したら、涙があふれて、むせび泣いてしまうかもしれないと思うからだ。安倍首相をそんなに敬愛したつもりはないが、平和な日本で、指導力をもって存在感を示していた安倍首相が、あのような形で凶弾に倒れたことは、悔しくて、悲しくて、どうしようもない思いになる。
そして純粋に、静かに逝去を悼むと思いきや、そこから統一協会やら、なんだかで騒ぎ出し、テロが容認される空気になって行った。事実、岸田首相はテロ攻撃を受けたのだ(未遂に終わったが)。日本が、安倍首相の暗殺を転機にして、もしかしたら暴力がはびこっていった、日本が変わったと、後世の歴史に記されるのではないかと、心がどんよりする。
コロナ禍において、第一波の時に安倍首相が、緊急事態宣言を発令する前、かなり悩んだという話を聞いている。強制力のない要請だけで、日本はやっていけるのか?しかし、「国民を信じよう」と側近に明かしたという。日頃から日本を愛することを話していた首相だが、国民への信頼という、為政者としてはかなりリスクの高いことをするほど、国民への信頼が深かったというところに、彼は、本当に、日本を愛していると思った。
そうした心があってこそなのだが、安倍首相亡き後、何か殺伐としている。統一協会問題が出て、なぜか統一協会に留まらず、宗教全般を規制する行政指導や法律ができてしまった。そして国民の自由な経済活動よりも、増税によって国が世話するから、という、社会主義的な動きも気になる。人の自由な活動よりも、国が管理するような殺伐さだ。信頼という土台にある国民の自由が、何か削られてしまっていないか?と正直、心が重たくなる。
多くの方が安倍首相をしたい、悼んでいるが、私は今現在を見ると、いわゆる「指導者無き後の、人々の混乱。不穏な国の動き」というのを見てしまい、心が悲しくなる。
しかし、いつか人は死ぬ。教会指導者も、天に召されていく。福音伝道者ビリーグラハムが召された時は、一つの時代が過ぎたと感じた。私個人にとって、人生で最も人が亡くなって泣いたのは、チャック・スミスだ。
なぜか、私は彼の召天の日、10月3日をあまり考えたくない。心をどうしても封印してしまうのだ。それよりも、彼が生きていた時に語ったこと、そのふるまいを思い出したい。説教の準備などで、彼の説教をしている声は毎週聞いている。しかし心は、どうしても、過去の人、歴史的な人になってきてしまっている。もう10年も経っている。
継承というのが、いかに大事かを思う。モーセがいなくなってから、ヨシュアがしっかりと信仰を受け継ぎ、約束の地に入った。そして、継承だけでなく、はやり主から直接の御霊の注ぎ、リバイバルが必要だと感じる。チャックは、「一世代、二世代、そして三世代になると、聖書では必ず、霊的衰退が起こっている。」と言っていた。ヨシュアなき後は、士師記に突入した。ダビデは、二代目ソロモンなきあと、一気に偶像礼拝に突入した。そこで、チャックは言った。「みながそれぞれ、一世代にならないといけません。」つまり、聖霊による強烈な注ぎが、キリストご自身が目の前に現れるような体験が必要なのだろう。
先に心が重くなると書いたが、決して、主のなされている新しい動きを、見失わないようにというのも、祈りだ。主は、暗き世において、人々の危機において、それを好機としてくださる方だ。私がまだ見ていない、希望の光は、実はもう輝いているかもしれないのだ。それをまだ、きちんと見ていないだけなのかもしれない。
ともかくも、地上における指導者がいかに貴いかを思う。そして、霊的指導者は、さらに、さらに貴いことを思う。しかし、これらすべてのことの主は、イエス・キリストだ!この方への思いを、聖霊によってさらに引き上げていただかないといけないと感じる。
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