連載 「こけしの恩返し」05 ギャラリーのバイト編(2)


このバイト先のギャラリーは、スタッフの平均年齢が高かった。

社長は私の父と同い年(私の父は標準より10歳くらい上です)で、それに準じてママさんもそのくらいのお年だったので、当時25歳やそこらだった私にとっては年上すぎて、どう接したらいいのか正直よく分からなかった。思えば、社長の子ども時代は戦時中だった訳で、その時代から今の時代までずっと社会人としてやってきたってことは、大波の中を座礁せずに持ちこたえた漁船みたいな根性と生命力があって当然だよなあ、、と想像する。

社長とママさん以外に、パート勤務のN子さんがいた。

N子さんは私より20歳くらい年上で、お母さんよりは若く、お姉さんよりは年上、という感覚だった。その当時の私にとっては、それまで接したことのなかった年代の方だった。

N子さんは、超個性的な社長とママさんの間で、ものすごく頑張っていた。

社長に怒鳴られても、それをかわす能力を長年のお勤めで身につけていたし、不遇を心に留めすぎない柔軟性やものごとを流す能力も長けていた。掃除は丁寧だし、いろんなことに気がつくし、お客さんへの接し方もすごく柔らかく心がこもっていて、常連様からも愛され、絵もたくさん売っていた。

あの社長とママさんの間にはさまれて何年もお勤めしてこられた、ということは、それだけですごい能力だと思う。私が来る前にも、何人も辞めていったスタッフがいたとN子さんから聞いたとき、ああ、そうか。。と妙に納得した。私は計2年勤めたけれど、それでも長い方だったらしい。


N子さんから教わったことはいろいろあるけれど、一番影響されたことは「言葉遣い」だった。

N子さんは、大学を出たばかりで何十歳も年下のひょろひょろの私に対して、敬語を使ってお話ししてくれた。

例えば、

「大学で何やってたの?」

と聞くところを、

「大学で何を勉強されていたのですか?」

とか、

「お母さんは仕事何やってるの?」

と聞くところを、

「お母様はお仕事何をされているのですか?」

というように。


当時の私にとって、それは衝撃的なことだった。

一つ前の会社で「私は出来ない子」というレッテルを勝手に自分に貼付けていた私にとって、自分はそんなふうに敬ってもらえるような言い方をされていいはずのない人間だ、と思っていたし、中学高校時代の部活で先輩後輩の絶対的序列のような「年下になんて敬語なんて絶対に使わない」的な経験があったものだから、何十歳も年下の自分なんかに敬語を使ってくださるN子さんの話し方は、私にとってあり得なかった世界だった。

N子さんと話していると、なんだか私のことを大切に思ってくれているような気持ちになった。自分って、もしかして大切な存在なのかな? と思わされた。

相手のことを大切に思っている、という意思を、話し方で伝えることが出来るんだ、ということ。言葉遣いによって、人を大切にすることができるんだ、ということを、N子さんから身をもって学んだ。

このことは、その後の私にとって人と接する際の基盤になっていった。



N子さんは、「社長とママさんには内緒よ」と言ってよく車でいろんなところに連れて行ってくれた。

展示会の準備で勤務が一緒だった日などは、帰りにお気に入りの喫茶店やラーメン屋などに連れて行ってくれて、いろんな話をした。

年は離れていたけれど、なぜか話は尽きなかった。

社長に怒鳴られた愚痴とか、未来への不安とか、人生のこととか、いろんなことを話した。

いつもご馳走してくれて、しかも車で駅まで送ってくれて、なんでこんなに私によくしてくれるんだろう。。と思うことがたくさんあった。


あるとき、N子さんは、あるノートを私に貸してくれた。

それは、N子さんが本や新聞などを読んだりする中で「いいな」と思った言葉を書き留めた「言葉集」だった。人生の教訓や、迷った時の考え方などがたくさん記されたその言葉集を読んで、私はすごく励まされた。そんな個人的な大事なものを私に見せてくれたことがとても嬉しかったし、そこに書かれたN子さんの心に留まった言葉は、当時の私の心に必要な力を持った言葉たちだった。そうやって、私はN子さんに励まされ、力をもらえたから、あのギャラリーから飛び立つことが出来たんだと思う。


N子さんは、私にとって、東京で出来た実姉のような、若いお母さんのような、あたたかくいつも見守ってくれる心の拠り所のような存在だった。

たくさんお世話になったし、たくさんたくさん励まされたし、文字通り、

恩人です。

N子さんと出会えて私はほんとうによかったです。

ありがとうございました!!!



次回はパン屋のお話を少し。。。

お読みいただきありがとうございました!




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