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インドネシア プサカ

突然の痛風発作

この際本音を言ってしまうと、インドネシア合弁会社の営業担当役員の辞令が出た時には、
 
「モスクワの次はジャカルタ!? 何故、ロンドン、パリ、ハンブルグ、ニューヨークじゃ無いんだ?!」と、やや落ち込みました。

 そのストレスの所為なのか、生まれて初めて痛風の発作が起きて歩行不能になりました。
会社に連絡して寝ていると、

 「石井は不貞腐れて、会社に来ていない。」

と言う噂が大阪事務所で囁かれていると電話してくる者まで出る始末です。
家内に会社の診療室までお薬を貰いにいってもらって、7日後に突然、嘘のように発作が終わりました。痛風については、その後勉強してわかりましたが、発作は生活習慣に対する神の警告で、今の生活習慣を続けていると、将来のどこかで又発作が起こり、だんだん起こる間隔が短くなって腎臓がずたずたになり人口腎臓による透析センターに一生通うことになるのだそうです。

しかしながら、赴任に向けて準備はしなくてはなりません。
考えて、二つのことをしました。

1.インドネシアで歯医者に掛かることが、どの程度のリスクがあるかわかりませんが、後5年間は歯医者に行かなくて済むように、今は健康な歯でも、虫歯の予備軍になる可能性のある奥歯に、全てアマルガムを詰めました。
2.痛風の薬は、ザイロリックという英国のwellcom社の製品ですが、幸い私の部下に大阪の薬問屋街・道修町の大手薬問屋の娘がいたので、2000錠、約三年分を分けてもらいました。医師の診断書なしで買えない薬なので、大丈夫かなと思いましたが、何事も起こりませんでした。

住めば都

43歳の6月、とりあえず私一人の単身赴任です。当社では、派遣された本人が現地生活に慣れて家族の面倒を自分で見ることが出来るようになるまで、最短6ヶ月は単身赴任することになっていました。単身赴任者用の寮に入ります。寮には6ヶ月間だけ滞在する新米赴任者と任期終了して帰国まで単身赴任を貫く人とを合わせて50人ぐらいが生活しています。
「ウイスマ・トゥブット」と言うその寮には、ニョニャ・ナピトプルという私と同年配の日本人女性の管理人がいました。彼女はインドネシア人と国際結婚してもう20年近くジャカルタにいるのでほとんど現地人のようです。50人の寮生に朝晩2食を準備し、10人近い使用人を管理しています。
インドネシアにおける当社の合弁子会社は5社、あとは少数持分の日系合弁1社の合わせて6社になります。出向してきている当社社員は100人近く、ジャカルタ日本人学校のPTAでも一大勢力になっていました。
寮での朝ごはんは、毎日同じメニューで、サラダ、ハムと目玉焼き、味噌汁、ご飯と巨大なパパイヤの4分の一カットにジュルック・ニピスという酢だちのような柑橘類の半分が添えられています。パパイヤとバナナはインドネシアで最も安い果物ですが、(パパイヤ一つ50円ぐらい)、その栄養価はすばらしく、消化機能を増進し体調をアルカリ化してくれます。お陰で私の痛風は全く影を潜めました。用意したザイロリックは、帰国後使用することになります。

インドネシア語は、素晴らしい。

次に、取り掛かったのは、インドネシア語です。インドネシア語の習得は真面目に取り組む限り極めて短時間で使えるようになります。ロシア語で七転八倒した私はインドネシア語の仕組みに感動すら覚えました。世界共通の言語を目指してエスペラント語と言うものが一時在りましたが、長い時間実生活で使われたことのない人工的な言語は機能しないことが判ります。私はインドネシア語(マレー語も含む)が世界語の候補になりうるのではないかと考えています。
私のインドネシア語の先生は会社が斡旋してくれたソニャさんという中国系の女性で一児のママですが、彼女の授業スタイルは、インドネシア語の教科書を一緒に読みながら、英語で解説を加えます。
とにかく沢山のインドネシア語を音読することが基本です。
週3回、会社に出勤する前の朝7時に私の寮まで来てもらいます。
私の社用車の運転手がソニャさんの自宅まで迎えに行き、寮までつれてきます。運転手は超過勤務手当が出るので喜んでやっています。
授業が終わると、私と先生は私の社用車でまずソニャさんを会社まで送り、その後私は出勤します。ジャカルタの通勤はマイカー通勤かバス利用ですが、朝からバスには大勢のスリが待ち構えていて危険この上もない状態です。この朝授業はソニャさんにもメリットがあるのです。

私は、授業を全てテープレコーダーで録音しました。次の授業までに、録音を再生しながら教科書に書き込みをします。この復習が意外に効果があり、6ヶ月後には顧客とインドネシア語で商談できるようになりました。勿論、現地人の課長が同行して内容をチェックしてくれていましたが、お客さんは私のたどたどしいインドネシア語を大笑いしながら聞いてくれました。
次の客先に向かう車中で課長が、何故お客さんが笑ったか解説してくれます。
毎月、約50~60軒の客先訪問をしている内に、私のインドネシア語は上達しました。客先で話す内容はいずれもほとんど同じ文章です。同じ文章を繰り返し使うことで、私の話し方は流れるように流暢なインドネシア語に変貌していきました。毎月、ほぼ同じ文章を50~60回繰り返しているのです。語学の上達では、よく使う文章を何百回も繰り返して話すことが効果的であるようです。

インドネシア語には、動詞の時制変化はありません。「行く」という動詞に、昨日、今日、明日と言う「時の副詞」をつけて過去形、未来形を表現します。
名詞には複数形が無いので、複数を表すためには同じ言葉を2回言います。人=Orang → 人々=orang oranng
文法はノート5ページぐらいに全て書くことが出来ます。後は単語の数を増やすことだけですが、日本人にとって覚えやすいボキャブラリイが多く在ります。
また、発音はローマ字表記どおりに読めば通じます。カタカナで覚えてもほぼ通じます。

こうして、インドネシア語が話せる様になると。生活が一変します。
現地の言葉で話し始めるとインドネシアの素晴らしさが感じられるようになります。
其処では時間はゆっくり流れており、慣れれば気候も過ごしやすく人々は優しく、あまりストレスのない生活が毎日過ぎていきます。

こうして、インドネシアは、赴任当初の謂れ無き嫌悪感から開放され、私の第2の故郷になりました。51歳までの7年半は私の人生でかけがいのない幸せな時間になりました。
私の家族も半年後には合流して、インドネシアの生活に馴染みました。子供たちにとっても
其の時期の体験が、彼らの人生に大きな影響を及ぼしたと思います。

私の大好きな国民的大詩人 イスマイル・マルズキの書いた「インドネシア・プサカ」と言う詩があります。

  インドネシアは私の故郷です、
  受け継がれてきた永遠の宝です。
  インドネシアには太古の昔より
  神聖にして讃えられた民がいます。
  その場所こそ、私が誕生し、育まれ、
  母なる大地に守られて、年を重ね、
  最後に眼を閉じる処です。

翻訳してしまうと、つまらなくなりますが美しいメロディーがつけられています。
そしてこの詞を2回繰り返し歌います.



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