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日本人はなぜ「読む・書く」を重視するのか

先日、ローカルスタッフから、「Did you アピ?」と聞かれた。
いくら頭の中で検索をかけても、「アピ」という動詞が一向に思い付かない。
ぼくが何度も聞き直すものだから、彼は痺れを切らして紙につづってくれたのだが、そこには「Did you happy?」と書かれていた。
言われてみれば、「ハッピー」といっていたような気もするが、「Did you〜?」と聞くものだから、てっきり動詞だと思っていたのだ。

彼は、英語でバリバリ仕事をこなす人物である。
母語はタミル語だと思うが、それに匹敵するレベルで英語を使いこなしている。
そんな人物でも「Did you happy?」なんて言ってしまうのだから、ある程度は文法が適当でも構わないということなのだろう。

日本人は文法に細かい。
その一方で、英語で会話することに関しては苦手な人が多いと思う。
その点では、ぼくは典型的な日本人なのだが、例えば先ほどの彼と英文法のテストを受けたら、恐らくぼくの方が点数は高いだろう。
しかし、英語を手段として意思疎通を行うとなると、ぼくはまるで歯が立たない。

「国際会議で最も難しいことは、インド人を黙らせることと、日本人を喋らせることだ」というエスニックジョークがあるように、日本人は「話す・聞く」ことが苦手な人が多いと思う。
それは外国語に限らず、そもそも「話す・聞く」ということを重視してこなかったからだと考えられる。
逆説的にいうと、言語能力として「話す・聞く」よりも、「読む・書く」を伝統的に重んじてきたということになる。
「話す・聞く」と「読む・書く」のどちらを重視することが正しいか、という問いに関しては答えがない。
ただし、現在の国際標準で言えば、「話す・聞く」能力の方がより求められていると言えるだろう。

では、なぜ日本が伝統的に「読む・書く」を重視してきたのかというと、それは「読む・書く」がグローバルスタンダードだった時代が長く、日本はその恩恵を強く受けていたからだと思う。
具体的にいうと、世界的に中国の影響力が強かった時代が長く、表意文字である漢字を使用している日本では、とりあえず「読み・書き」さえできていれば、外国との交流が容易だったからではないかということだ。

例えば、中華料理店で漢字だけのメニューを見ても、我々はだいたいの料理が想像できる。
中国と交流をおこなっていた1,000年前の日本人も、同様だったのではないかと思う。現地の言葉は話せないが、筆談で意思疎通を行なっていたという例は多くありそうだ。
ましてや中国語は発音が難しいので、日本人にとって難解な声調を攻略するよりは、漢字の読み書きを通して情報を伝達する方がはるかに楽だったのではないか。
つまり、長い歴史で見れば、日本人にとって「読む・書く」能力を磨くことは非常に合理的であり、「話す・聞く」能力の重要性が取り沙汰されるようになってからはせいぜい200年にも満たないのである。
だから、どうしても日本人には「読む・書く」を重視してしまうマインドが残っており、それが文法に偏重した外国語教育へと繋がっているのだと思う。

現在の世界では、良くも悪くも中国の影響力が強まっており、中国が再び世界の覇権国に返り咲こうとしている。
未来のことはわからないが、その時、世界のスタンダードは「話す・聞く」と「読む・書く」のどちらが重要視されているのだろうか。
漢字文化圏の日本はもしかしたら、何かしらの恩恵を受けられるかもしれない。

冒頭の話に戻るが、「Mr. Grammar」のぼくも、最近はインド人に倣ってとりあえず口を動かしてみるようにしている。
今までは頭の中で文章を構築してから口を開いていたが、今では思いつく単語を口に出すようにしている。
しかし、なぜかぼくの話は全く通じないのだ。なんでやねん。

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