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他人の「運命」を肯定できるか

Question; Jamal Malik is one question away from winning 20 million rupees. How did he do it?  

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ムンバイのスラムで生まれ、貧困の波を生き延びたジャマールは、クイズ番組で正答を重ねて大金を手に入れる。
無学な青年が数々の難問に答えることができた秘訣は、彼の凄絶な過去にある(なかには当てずっぽうで選択肢を選んだ問題もあるが、それらも「奇跡的」に的中する)。
彼の歩んだ数奇な人生の中に答えを導き出すキーが転がっていて、その光景を思い出しながら彼は問題に答えていく。
つまり彼が億万長者になれたのは、彼が彼の人生を歩んでいたからで、それが「運命」に他ならなかったからだ。

では、彼が今までの人生で問題の答えとなる光景に出会していたことが「運命」だということは認めるとして、我々は彼の生い立ちの全てを肯定することはできるのか?
彼が歩んできた貧困と暴力にまみれた過去を、「運命」というたった一単語によって片付けることはできるのだろうか。

過去のワンシーンを切り取って、それが「運命」だと断定することと、過去の全てを「運命」の名の下に落とし込むことは、果たして切り離して考えることができるのだろうか?

例えば、「シヴァ神は右手に何を持っているか?」という問題が出題される。
幼少期に異教徒に襲撃された際、ジャマールはスラムの入り組んだ路地を逃げ惑う中で、全身を青く染めたシヴァ神を幻視している。
クイズ番組の最中で彼はその場面を思い出し、正しい選択肢を選ぶ。
そのエピソードだけだとただのラッキーな話だが、異教徒の襲撃によりジャマールは母親を亡くしている。
彼の人生において、異教徒の襲撃と母親の死とシヴァ神との邂逅は密接に関わりあった出来事であり、シヴァ神との邂逅を「運命」だとみなすことは、同時に母親の死も「運命」だったと結論づけることに他ならない。
それはあまりにも酷すぎないか?

ぼくは「決定論」を信じている。
生まれてから死ぬまで、人生には予め定められたシナリオがあって、それには決して抗うことができないという考え方だ。
しかしこの考え方を突き詰めていくと、自分の生まれ育った環境が恵まれたものだったという自認に行き着く。
「運命」の一言では片付けられないほどの、強い憤りや絶望を抱くような理不尽を経験していないからだ。
理不尽な家庭や環境のもとで生まれ育った人に対して、「それが君の運命だよ」と言い切ってしまう勇気がぼくにはないし、それが許されるとも思っていない。
自分の人生に対しては決定論を当てはめることができても、それを他者に押し付けるほどの強い信念をぼくは持ち得ない。
ジャマールが歩んだような過酷な半生に対して、なぜそのような残酷な「運命」が存在するのかという問いに、ぼくは答えられない。

例えば「ジャマールの過去が運命なのか」という問いに対して、それを経験していない他者がどのような答えを用意しても、それは全くの的外れになりうる。
仮に「それは運命だ」と答えたとして、「同じ経験をしていないのに無責任だ」と糾弾されたら、その批判は甘んじて受け入れるしかない。
反対に、「そんな悲惨な運命は許されるわけがない」と答えても、「ぼくは運命だと落とし込んでいる。偽善者め」という謗りを受けるかもしれない。
結局のところ、「わからない」という返答が最も誠実な答えなのだと思う。
他人の過去や、それをもとに醸成された価値観や人格に対して、全く同じ経験をし得ない以上、それに対して何かしらのコメントを残すことはぼくには怖くてできない。
「わからない」という答えは無責任な物言いに思えるが、現時点でのぼくにとっては最も誠実な言葉なのだ。

インドネシアにはたくさんの物乞いがいた。
彼らに対してチップを払うという行為が正しいか否かというのには、百通りの答えがある。
ただ間違いなく言えるのは、ぼくが彼らと全く同じ環境で育ったら、ぼくも今頃は物乞いをしていた可能性が極めて高いということだ。
確かに本人のやる気と努力次第で、より良い仕事や生活を手に入れることはできるかもしれない。
しかし彼らの生まれ育った環境が、十分にやる気が引き出せるような環境であったか、努力が正当に評価される環境であったか、努力をすることとより良い生活を手に入れるということを結びつけて考えられる環境であったか、という視点を持ち続けることは重要だと思う。
ぼくが大学まで進学することができたのは、両親が教育に対してそれなりの理解があり、義務教育以上の教育を受けられるだけの経済的な余裕があったからだ。
決してぼくが努力家だったり、優秀だったりしたからではない。
ぼくが今の生活を送れていることは全くの偶然であるから、物乞いに対しては常にチップを払うように心がけていた。
「本人のやる気が〜、努力が〜」と口で言うのは容易いが、実際に自分が何か有効な手立てを打てるかというと、ぼくは極めて非力だ。
例えばもう少し経済的に余裕があれば、貧村に学校を作って教育機会の拡充を図ったりすることができるだろうが、結局今のぼくにはせいぜい1食分のチップを渡すことしかできない。

しかし。
映画の中で、悪い大人によって物乞いの孤児が目を焼かれるシーンがある。
盲目だと倍のチップを稼げるからだ。
無条件にチップを渡すという行動は、そのような非道な行為を繰り返させることに繋がりかねない。
じゃあ、何が正解なのか。
たまたま恵まれた環境で育った人間が、たまたま恵まれない環境で育った人間に対して、どのような施しが正しいかを公正にジャッジすることはできるのか。
そもそも「正しい」って何だ。

話があちこちいってしまった。
話を元に戻すと、目を覆ってしまいたくなるような彼の生い立ちに対して、それが「運命」だったとは決して言えないし、言いたくない。
しかし、それは「運命」ではないと言い切ることも難しい。
また、あるワンシーンだけを切り取ってそれが「運命」だということと、全ての過去を「運命」だと受け入れることの線引きも分からない。
分からないが、避けられない現実をどうしても受け入れなければいけない時に、「運命」という単語はとても都合の良い言葉なんだと思う。


Answer; It is written.

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