はじまりの1日|津村記久子『ディス・イズ・ザ・デイ』
今シーズンの阪神タイガースの試合が残り1試合になった。
オリンピックの影響で後ろ倒しになり、こんなにしっかり秋めいた時期までまだ順位が決まっていない。
かれこれ20年以上ファンをやっている我が阪神タイガースは、今年は優勝争いをしている。
中学生時代に2度の優勝を見てからというもの、高校入学から30代に突入する現在まで、私は阪神の優勝を見ていない。
90年代の「暗黒時代」と言われた時代ほどには低迷するわけではなく、かといって首位チームとめちゃくちゃ激戦を繰り広げるわけでもない。
私のパッとしなかった10〜20代の青春時代はイコール、タイガースが優勝に手の届かない時代であった。
何事にも期待しすぎず生ぬるく構えることや、
ダメだった時のことを過剰に考えて準備しておく負け癖的精神構造は、そんなタイガースとともに醸成されたとも言える。
いや、人のせいにすんな、それはあくまでもお前の魂のせいだと言われそうだが。
20年以上、と言うと熱烈なファンと思われがちだが、
野球を見て阪神の勝敗を見届けたり結果を確認することは、自分には歯磨きのようなものだ。
あまりにも日常に馴染んでいるため、趣味は野球観戦です、とは言ったことはない。
趣味は歯磨きです、と言う人がいないのと同じように。
球場に行っても派手に応援するわけでもなく、選手ごとの応援歌もよく知らないし、家にいるみたいにダラっと野球をみている。
たまに野球のことを人に話すとき、
「私にとっての阪神タイガースは、思い通りにいかない人生の象徴だから」と言っている。
結構真面目にそう思っているのだが、これを聞いた人は、どんだけ卑屈でネガティブなんだ!と笑うか、引くか、そこまで自分と同一化しなくても!とツッコむか、筋金入りだね!と感心するかのどれかである。
つまりあまり理解されない。
この16年間、本当に思い通りにいかなかった。
「こうなればいいのにな」と思うことはそうはならず、「これだけは絶対避けてほしい」と思えば「これ」通りの結果がやってくる。
過去3年間の私の甲子園での観戦成績は1勝13敗である。しかも大きな山場もなくサラッと負ける試合が多く、負けることへの悔しさも薄れている。
去年久しぶりに勝利を見届けた際は、六甲おろしの歌詞を忘れかけていた。
おかげで私は家族や友人から「敗北の女神」と呼ばれるに至った。
ここまで書くと、この16年ロクなことがない最悪なチームを応援し続けてきたみたいだが、「思い通りにいかない」ことは、決してマイナスなことだけではない。
「ああ、今日もあかんわ」と予定調和のダメな展開を予想していると、たまにめちゃくちゃな奇跡が起きてとんでもない逆転をし、私の勝手な「思い通り」を裏切ってくれることもある。
良くも悪くも思い通りにいかないのだ。
だから仕事後に毎日毎日、サンテレビ(タイガースの試合をどんなに延長しても最後まで放送する関西ローカルテレビ局)をつけるのだ。
めちゃくちゃな失敗をした日、恥をかいた日、何かいらない一言を言ったのではと一人で反省してクヨクヨしている日の夜、阪神が勝てば、これでチャラになったなと思える。
いろんなことが怖いほどうまくいって調子に乗ってる日の夜、阪神が負ければ、なんとなく平熱に戻る。
そんなふうにして、阪神タイガースは、私の微妙な心のバランサーとなりつつある。
転職し仕事に慣れ、ようやく風向きが良い方向へ吹き始めた今年、阪神が優勝争いをしていることも、なんとなく嬉しい。
このような、人に話したこともない阪神との関係性をつらつらと書くことに至ったのは、津村記久子さんの「ディス・イズ・ザ・デイ」を読んだからだ。
あまり詳しくないサッカーのお話なのでついていけるか心配だったのだが、
いちスポーツチームとともに生きることや、時に自分の人生を重ねたり、映し出したりすることを全力で肯定してくれる作品だった。
だから、阪神タイガースに抱く、今の自分の変な感情や関わり方を、もしかしたら優勝してしまう前に、残しておこうと思った。
あと1試合。
ディス・イズ・ザ・デイがやってくる。
決して楽ではないシーズンだった今年、阪神が優勝したら、ささやかに涙を流して、また次の日から普通に仕事をするだろう。
優勝できなければ、「こんなこともあるよな」と、それはそれで変わらぬ日常をそのまま生きていける。
最後の最後まで、生暖かく見守ろうと思う。
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