器用貧乏卒業日記 - 悩める優等生の心のストレッチ記録①

帰り道の電車内から行きつけの中華で飯を食っている時まで、かれこれ1時間くらい内省していることに気付いた。おそらく1日のほとんどの時間を、僕は内省に充てている。もう少し外側に意識を向ければ、興味深い発見があるかもしれないし、面白い出来事が目に付くかもしれないのに、本当に勿体無い。周りの出来事や他人よりも自分ばかりに興味がある、というより、自分の事で精一杯なのである。人生も、スポーツも、飲み会も、そういう時は大体上手くいかない。

なぜ内省を始めたのか、考えてみた。どっから始まったのか、正直覚えていないし、朝起きた瞬間からずーっと続いてたのかもしれない。ただなんとなく分かるのは、胸の奥でどよーんとした何かが立ち込め始めるのが、内省のきっかけだということ。そのどよーんとした何かというのは、これから自分は上手くやっていけるだろうか、とか、誰かに愛してもらえるだろうか、とか、そういう不安だとか憂鬱であり、おそらくその根源には、凝り固まった自己否定がある。

昔から僕は「自分が特別な人間である」とどこかで信じている。頭の中で夢見心地な物語が始まる時、その主人公はいつも自分。これまで何千通りもの漫画みたいなサクセスストーリーを頭の中で創り上げてきた。作家だとしたら大したものだが、話の大筋はいつも一緒で、主人公が誰もが羨むような大成功を収めて終わり。読者には早々に飽きられるに違いない。でも良かった。唯一の読者はその作者たる自分自身であり、主人公もまた、自分自身だから。そんな自己満ストーリーに最高のカタルシスを感じて、ふと我に返ると、そんな夢物語とは掛け離れた現実に絶望する。そんな事ばかり繰り返している。

"ロマンチスト"と言えば聞こえはいいが、ただの思い上がりである。小さい頃から沢山勉強して、スポーツをして、"文武両道"などと持て囃され、いつしか「自分は特別である」と思うようになった。というより、「自分は特別でなければ愛されない」と思い込んでしまったのだ。ここで言う"特別"とは、かの名曲『世界に一つだけの花』の真逆、"オンリーワン"ではなくて"ナンバーワン"のこと。皮肉な事にその思い込みならぬ強迫観念は、"ナンバーワン"になることが更に難しい環境へと、あれよあれよと自らを押しやっていき、気付けば僕は、"日本最高峰の大学の体育会部員"という"究極の文武両道人間"になっていた。

ただ幸か不幸か、僕は"究極の文武両道人間"という肩書きで満足できる程愚かではなく、驚く程に物事を客観的に見るのが得意だった。周りを見渡せば色んな側面で自分よりも遥かに優れた人間が沢山いて、「特別でありたい」という己の"ナンバーワン"志向は遂に満たされる事はなかった。そうやって丸裸の自分はコテンパンに否定され続け、いつしかペシャンコになってしまった。己の現在地だけは絶対に見誤らないという意味では、自分は心底無駄に賢い人間だと思う。

その賢さは、世間一般が"優等生"に向ける冷ややかな目線をも敏感に察知し、小学校高学年に差し掛かる頃には、"優等生らしからぬ優等生"という、これまた己が特別たる為の術を編み出して、優れた結果を敢えてひょうきんに自慢してみたり、解らない事は素直に解らないと言ってみたり、私生活ではダラシない一面を曝け出してみたりするようになった。全ての根幹たる「自分は人より優れているという意味で特別でなければならない」という凝り固まった思考を抱き続けて生きているという点では、最上級に不器用な生き方なのだが、その不器用な人生の過程で傷付かない為の小手先の生きる術は、これまた稀に見る程に器用なのだ。

そういえば、近頃通っている飯田橋のストレッチクリニックでも同じような事を言われた。どうやら俺の身体は、身体操作の根幹たる仙骨周りが致命的に固まってしまっており、そんな状態でも器用に身体を動かし続けた結果、不必要に周りの筋肉を使ってしまい、その根幹がより一層凝り固まってしまっているらしかった。フィジカル的にもメンタル的にも、"器用貧乏"を地で行く人間なのである。こんな出来た話あるだろうか。

話は戻るが、結局、僕の内省は、凝り固まった自己否定から始まっている。どんなに器用に小手先の生き方を身に付けようと、その苦しみからは逃れられなくて、少しでもその痛みを和らげたい、少しでも幸せになりたい、そんな風に心は四六時中叫んでいる。それこそがまさに終わらない内省の正体なのだ。

《ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン》。幼稚園の頃大好きだったこの歌が、20年経った今、切実に自らに言い聞かせる言葉と、こんなにも重なるなんて、思ってもみなかった。気が付かないまま20年が経ち、「ナンバーワンにならなきゃいけない」という心の痛みの根幹は、その間固まり続けて、簡単にほぐせるものではなくなってしまった。

それがほぐせたら、きっと僕の人生は見違えたように変わるんだろう。どこにいたって人知れず始まってしまう、暗くて深い心の海での禅問答も消えてなくなり、やっと外の世界を見るんだろう。今よりも景色がキラキラとして、夢が出来て、目の前の人への興味が湧いて、自分も他人も世界も、もっともっと愛せるようになるんだろう。

そうなるにはどうしたらいいだろうか。そういえば、先のストレッチクリニックの先生が言っていた。
「身体にはほぐれていく順番があって、最後の最後に一番肝心なところがほぐれるんです」
もしかしたら心も同じかもしれない。特大ディスアドバンテージを背負う人生の中で、いつしか身に付けた小手先の誤魔化し方。まずはそれを少しずつやめてみればいいんじゃないだろうか。当然戸惑いもあるだろう。歯車が狂ってうまく動かなくなるかもしれない。沢山傷付きもするんじゃなかろうか。でも、身体がほぐせるなら、心だってきっとほぐせるはず。見たことのある世界のまだ見たことのない見え方を、味わう日がその先にきっとある。そう信じて頑張ってみようかな。

ちゃんと身体の方のストレッチも頑張りたいと思います。でも部屋が狭すぎるのでまずは引っ越さないといけないかもしれない。前途多難です。

そんな、決意の日記でした。

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