比較的安い呪文
「人をやさしくする呪文…」
オレは説明書を読みながらつぶやいた。
昨日、飲み会帰りに怪しい呪文屋を見つけた。安かったのと、酔いのせいもあり、ひとつ買ってしまったのだった。
怪し過ぎるが、物は試しだ。とりあえず鬼のような部長に使ってみよう。
朝礼終わりにさっそく唱えてみた。今日は月に1回の面談がある。いつもは怒られてばかりだけど、これでマシになるハズだ。呪文がしっかり効いていれば。
部長に呼び出され、会議室へ。すると部長は開口一番、言った。「田中、お前またノルマ未達だな。どうするんだ」
「あ、はい。来月も今月以上に精一杯やらせて……」
「お前毎月それしか言わねえじゃねえか。一体なにやってんだ。遊びに来てるのか」
「いえ、そんなことは…」
「本当にいい加減にしろ。来月未達ならちょっとこっちも考えるからな」
呪文は全然効いてなさそう。いつもの部長だ。まあ、こんな怪しい呪文に期待なんてしてないけど。
部屋を出ていく時、部長はオレを振り返って言った。
「お前はやればできるんだからな。頑張れよ」
なんだ今のセリフ。普段の部長なら絶対こんなやさしい言葉は言わないハズだ。これはもしかして呪文が効いたのか。
でも、あの言葉以外、部長はやっぱり鬼のようだった。気のせいだな、これは。
仕事帰りにまたフラっと呪文屋に寄り、魔女のコスプレをしている老婆の店主に文句を言った。
「昨日買ったやさしくなる呪文、効いてなかったみたいですけど」
「ホントかね」黒いフードに身をまとった店主はささやくように言った。「本当に効いてなかったかね」
「うーん。効いているような効いていないような……。部長にかけたんですけど、いつもは言わないやさしい言葉を一言だけかけてもらいました」オレは怪訝な顔で言った。「でも、それ以外はいつもの恐い部長でした」
「ほら効いてるじゃないか」呪文屋は言った。「ウチは『比較的安い呪文屋』だからね。安い分効き目も少ないんだよ」
「じゃあ、高い呪文はしっかり効くんですか」
「そりゃそうさ。その部長だって180度性格が変わる。ウチじゃ取り扱ってないがね」
「こっちも持ち合わせがあまりないし、どうせ高いのは買えないんですけどね」オレは何気なく展示してある呪文に眼を向けた。「相手がホレる呪文……」
「いいものに気が付いたね。自分に好意を向けさせる呪文さ」
オレは事務の佳代子さんが好きなのだ。しかし、全く相手にされていない。こんな簡単なことで佳代子さんと付き合えるなら……。
次の日、昨日買った「相手がホレる呪文」をさっそく佳代子さんにかけてみた。朝はいつもの佳代子さんでオレの方には目もくれなかったが、昼休憩時、2人になった事務所で佳代子さんが声をかけてきた。向こうから声をかけてくるなんて、今までになかったことだ。
「田中さん、昨日漫画喫茶にいたでしょう」佳代子さんは無表情で言った。
「え、ま、まあ行ってたけど……。これ誰にも言わないでね」オレは少しふざけた感じで言った。
「ええ。外回りなんて皆そんなものですから。でも田中さん先月もノルマ未達なのに、そんなことしてる場合ですか」
「そ、そ、そうだね。ちょっと休憩してただけだよ」
「休憩ならその辺のカフェですればいいじゃないですか。漫画喫茶っておそらく何時間も漫画読んでたんでしょう」
「う、うん……」
「もっと危機感持った方がいいと思いますよ。会社にも迷惑かかってるんですから」佳代子さんは冷たく言い放って、事務所を後にした。
その日の夜、再び呪文屋に向かった。今日こそ文句を言ってやる。「相手がホレる呪文」なんて効かないどころか、逆に怒られちゃったじゃないか。
「おや、また来たのかい」呪文屋が不気味に笑いながら言った。「金曜の夜だと言うのに、アンタもモノ好きだねえ」
「ちょっと、昨日買った『相手がホレる呪文』、まったく効かなかったですよ」オレは怒りながら言った。「ホレるどころか、漫画喫茶でサボっていたことを注意されましたよ」
「ほう、また効いてるね」
「どこが効いてるんですか」
「興味がない相手にそんなこと言うかい? アンタのことが気になり始めたからそんな助言をしてくれたんだろう。将来の旦那が頼りないと、女性は不安だからねえ……ひっひっひっひ」
「そういや、普段は絶対話かけてくれないのに、わざわざこちらまで来て助言してくれた。ということはしっかり効いていたのか」
「どれほどの効果を期待していたかはわからないけど、アンタがそう言うなら効いてたんだろうね」呪文屋は奥の棚から、あるものを取り出した。
「ま、まさか、それは…」オレはその呪文を見てドギマギした。
「そうさ、『相手がホレる呪文』の比較的安くないバージョンさ」呪文屋はそういうと呪文を机の上に置いた。「昨日とは効き目が全く違う」
「そ、そ、そうなんですか」オレは焦る気持ちを押さえつつ、訊ねた。「おいくらですか?」
「そうだねえ。昨日の呪文の100倍はするかねえ」呪文屋はニヤリとしながら言った。「その分、効果も100倍だがね、ひっひっひっひ」
オレは土、日の休みの間落ち着かなかった。貯金すべてを下ろして、あの呪文を買った後悔と、期待感で一杯だったからだ。
「あれの100倍の効果かあ……ふふふふふ」
月曜日、ワクワクする気持ちを抑えつつ、慎重に佳代子さんに呪文をかけた。効きすぎていきなり抱きつかれたりしたら、どうしよう。
外回りから帰ってきたオレは、佳代子さんの方に目線を向けた。相変わらずつっけんどんな態度でキーボードを打っている。全くいつもの佳代子さんだが、これはオレのことが好きになり過ぎて、仕事に精を出さないと気持ちが抑えられないからだろう。
これなら行けるぞ。オレは佳代子さんを食事に誘ってみることにした。
事務所から出た佳代子さんのあとを追い、声を掛けた。
「田中さん、なんですか。私急いでるんですけど」佳代子さんはイライラした様子で言った。なんか期待していた態度と違う。なんかもっとこう、眼を輝かせたりするんじゃないのか。
「あ、今晩お食事とかどうかなあと思って、はははは」
「私、今日デートなんで無理です。それでは失礼します」佳代子さんは早足で去っていった。
今日こそ、今日こそ、絶対文句を言ってやる。何が100倍だ。全然効いてないじゃないか。いや、もしかして100倍効いてあの程度だったのか。それはそれでオレって普段からどれだけ嫌われてたんだという重大な問題が発生してくるぞ。
いや、そんなわけはない。とにかく今日こそ文句を言って、金を返してもらおう。100倍どころか全く効いてなかったと伝えるのだ。
呪文屋に行くと、店は閉まっていた。ガラス窓越しに見てみると、中は何もない。
ちくしょう、逃げられた。ハナからオレの金が目当てだったのか。文句を言われる前に逃げたんだ。
もしかして最初に買った『やさしくなる呪文』も『相手がホレる呪文』も効いてなかったんじゃないか。部長はたまたまやさしい言葉を口にして、佳代子さんも成績を出さずサボってばかりのオレに単純に腹を立てたんだろう。まんまと騙された。
そしてオレはガラスに貼られていた紙を見て、あまりの悔しさに号泣した。
「100倍でも1000倍でも0に掛けたら、なんでも0なのさ」
働きたくないんです。