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『小市民シリーズ』アニメと原作の違い、原作派のひとこと【アニメと原作小説:第一話及び春季限定編の改変比較】

以下考察と感想は僕個人の意見です。
ご了承ください。


『小市民シリーズ』のアニメ化、『氷菓』好き(アニメも原作小説も)の自分にとっては大変楽しみなことでしたが、蓋を開けてみれば…綺麗な駄作…という印象を受けてしまった。

映像作品で楽しもうと思い、原作小説を読まずにアニメを視聴した結果、なんだか面白くない…つまらないとまでは言わないので、視聴できるレベルには仕上がっているのだが、そこが逆に問題点ともいえる。つまり、綺麗に作られているのに何が良く無いのか?がわからないということだ。

僕は『小市民シリーズ』を心から楽しみたいと思って視聴し、作品の意図を汲み取ろうとヒントを探り、思考しながら観ているのだが、どうにも面白くならない。一抹の不安を感じ「これは原作があまり面白く無いのか?」「でも氷菓の人だよな」「日常ミステリーだからつまらなく感じるのか?」「でも氷菓の日常ミステリーも同じ規模だったよな」と思い、原作に問題があり楽しめないのか?アニメ化がある種失敗しているのか?を確認しようと考え原作小説『春季限定いちごタルト事件』を手に取った。

原作小説が面白い

結論から言うと原作小説は面白い。『氷菓』と比べると『氷菓』の方が僕は好きだが、それを差し引いても面白いと言える。

ということは、問題はアニメ化にあることになる。僕がこのアニメを楽しめない一番の理由は、キャラクターがよくわからないところにある。主人公の小鳩くん、ヒロインの小山内さん、友人の堂島くん、メインの3人のキャラがよくわからない…つまり性格が読めない…そのため感情移入ができない…結果第三者視点で物語を傍観することになる。

アニメ『氷菓』が些細な日常ミステリーでも面白かったのは、キャラの性格が立っており、客観的に見ればどうでもいい謎が、キャラの視点を通すと感情が乗り、全くどうでも良く無い問題と化すからと思う。日常生活でも、自分はどうでもいいことだけど、その人にとってはどうでもよくないことで、そこに何かこだわりを持っているということがあるだろう。このこだわりの差がその人の思想・心情・感情といったものだ。

日常ミステリーにおいて、キャラ立ちが失敗するとミステリーの説得力が格段に下がる。普通の殺人事件が起こるようなミステリーなら、そのシリアスさが説得力になって、“どうでもよくない”と感じさせるが、日常ミステリーではキャラの感情が乗ることによるこだわりが“どうでもよくない”と思わせる装置になりエピソードの説得力になる。

アニメと原作小説:第1話の改変点を比較

具体的にアニメ『小市民シリーズ』と原作小説ではどう改変されてしまっているのか?確認してみた

改変には二つある。一つは要素を追加すること。もう一つは要素を減らすことだ。どちらも要素を増減することによって視聴者に意図をわかりやすく示すという考えがある。

アニメ第一話のエピソードの中で僕が印象的に感じた改変か所を列挙し、一つずつ僕の考えを話したいと思う。

(1)合格発表後に小山内さんと会う

〈アニメ〉小鳩くんが掲示板の裏にいる小山内さんを発見して近づく
〈原作小説〉小山内さんは背が小さく目立たない人なので、見つけるのを諦めて校門で合流することにする

原作小説では主人公(小鳩くん)が発見できないほど小山内さんのステルス能力が高く(=目立たない小市民)、そのため小山内さんに行動を促し合流する流れになっており、原作小説では小鳩⇄小山内という対等の関係性だったのが、アニメ表現では小鳩→小山内の関係性に読み取れなくもない。

(2)喫茶店で限定いちごタルトの話をする

〈アニメ〉“あるお店”の春季限定いちごタルトの話。小鳩くんが甘いものが苦手で、苦手な理由は家が和菓子屋だからと説明。小山内さんの好みを細かく把握している話。堂島くんの話。場面転換し放課後、春季限定いちごタルトの店が“アリス”と明かされ、これから一緒に買いに行く約束をしたところで電話がなる。
〈原作小説〉小鳩くんは甘いものが苦手な素振りを見せる。“アリス”の春季限定いちごタルトの話。堂島くんの話。場面転換し放課後、これからクレープ屋に一緒に行く約束をしたところで電話が鳴る。

原作小説ではアニメと違い小鳩くんの家が和菓子屋であることの説明がない、それもこのエピソードに限ってではなく『春季限定いちごタルト事件』一巻を通してない(もしかしたら読み飛ばしたかも)。なぜないかと言えば、物語の本筋、つまりミステリーに関係ないからだ。

次に原作小説では店名が“アリス”と説明されて伏せられない…伏せる意味がないから伏せていないのだがアニメは伏せられている。アニメの意図としては次のシーンでもう一度お店の話があるから、そこと重複しないようにという配慮なのだろう。しかし“ある店”と“アリス”の話の間に中途半端な長さで小鳩くんの家の話が挟まっていて、何の話だっけ?という感じがした。

(3)ポシェットが盗まれた被害届を警察に出すと言う

〈アニメ〉堂島くんが被害届を警察に出すと言う。
〈原作小説〉堂島くんが被害届を警察に出すと言う。被害者の吉口さんも同意見。堂島くんが被害届を警察に出すことで、警察は動かないかもしれないが教員が動き、結果犯人を追い詰められると言う。

原作小説では、堂島くんは単に正義感に駆られた単純まっすぐな性格ではなく、正義感を持ちながら問題を解決する知性を持っていることを示しているのに対して、アニメでは単純でまっすぐな気持ちが先走りそうなキャラに見えてしまう。説明の足りないアニメ台詞だけでは、学校内の出来事なのに被害届とは流石に大袈裟すぎないか?と少なからず感じてしまう。

(4)ポシェットの中身を確認する

〈アニメ〉ポシェットの中を確認しラブレターを見つける。
〈原作小説〉ポシェットの中を確認しラブレターを見つけるが、小鳩くんは盗聴器が仕込んであると推理していた。

話の流れ的に視聴者はラブレターが仕込んであるものと容易に想像できると思う。そのため視聴者の視点からすれば小鳩くんも同じようにラブレターが仕込まれていることを推理したと考えるのが普通だと思う。しかし、原作小説では小鳩くんは現実的なラブレターではなく非現実的な盗聴器が仕込んであると幻想を抱いているのだ。この非現実的な妄想力が小鳩くんには実はあり、現実的な推理能力と入り混じっている。この厨二病的な少し痛い側面を隠し持っていることから、その好奇心が謎解きに駆り立てているのかなと思った。

(5)ポシェットを見つけ犯人と鉢合わせる

〈アニメ〉小鳩くんがポシェットを見つけて手にする。そこに犯人が現れ、小山内さんが小鳩くんの手からポシェットを奪う。犯人が近づいてくるところを小山内さんが「あっ、あの」と声を発す。「それ以上近づいたら…」と話を展開する
〈原作小説〉小鳩くんがポシェットを見つけて手にする。そこに犯人が現れ、つかつか詰め寄ってくる。小山内さんが割って入ってポシェット奪い「動かないで下さいっ」と警告し「それ以上近づいたら…」と話を展開する

原作小説では小鳩くんが犯人に責められ、距離を詰められる危機感に反応して小山内さんがポシェット(犯人の目的物)を奪う。小山内さんは自分は見た目が小さな女の子だから犯人は手を出すのを躊躇するだろうと読んで行動し、小鳩くんを助ける一幕になっているが、アニメでは犯人が詰め寄る前に小山内さんがポシェットを奪ってしまっており危機感がなく、小山内さんの行動についてアニメーションからその意図を汲み取れないように感じた。

続けて小山内さんは(原作小説では)犯人に対してポシェットを手に「動かないでくださいっ」と警告する。これはポシェットを人質に取った殺人事件風の台詞回しの面白さなのだが、アニメではコミュ障のように「あっ、あの」と声を発するだけで、言葉による表現の魅力が消えているし、小山内さんの性格も反映されていない。

原作小説によると小山内さんは狼のような人で、見た目は目立たない子だが、内心は謎解きによって犯人を特定し、謀略によって犯人を追い詰める行為を楽しむサイコパスな側面を持つキャラであり、コミュ障な言動ではキャラ設定と一致しないと思う。小山内さんの普段の目立たないという行動は単に小市民になろうとする意思の表れであり、性格ではない。

(6)犯人との別れ際にかけられる一言

〈アニメ〉犯人に「でも、お前らにはわかるだろ?」と声をかけられ、小鳩くんと小山内さんは目を合わせてキョトン顔
〈原作小説〉犯人に「でも、お前らにはわかるだろ?」と声をかけられ、小鳩くんと小山内さんは目配せし建前としてうなづく

犯人は小鳩くんと小山内さんが付き合っているカップルだと勘違いし、同意を促してくるシーンだが、原作小説では2人は小市民ならここは同意するのが無難だろうと考え、小市民たるべくうなづきその場を去るが、アニメではキョトンと間抜け顔で一切理解できないような素振りを見せて引いてしまう。もしかしたら2人は付き合っていないということを視聴者に伝える意図なのかもしれないが、これでは2人が小市民を目指すという目標に反しており納得できない。

以上がアニメ第1話の改変点だが、続けて原作小説『春季限定いちごタルト事件』の他のエピソードも含め「春季限定編」全体での改変点を話したいと思う。

アニメと原作小説:『春季限定いちごタルト事件』全体の改変点を比較

(7)原作エピソード「For your eyes only」

〈アニメ〉全カット
〈原作小説〉羊の着ぐるみ(アニメ第1話)とおいしいココアの作り方(アニメ第2話)の間のエピソード

このエピソードは原作小説では堂島くんが新聞部に所属していることが明かされ、堂島くんの手伝いで小鳩くんが美術部の先輩が残した2枚の絵の謎を解くというものになっている。アニメでは全カットされているが、このエピソードは小鳩くんが知恵働きを辞めたいが謎解きをしたい好奇心に抗えず、小山内さんが代わりに謎を解いてくれたという体で謎解きを展開する。堂島くんは小山内さんが謎を解いてくれたと思っているため、次のエピソード「おいしいココアの作り方」で小鳩くんと共に小山内さんを家に招き礼を述べる展開になる。この話によって小山内さんは堂島くんと間接的に接点を持つことがあって、次のエピソードでさらに接点が縮まるという流れなのだが、アニメでは唐突に家に招待される流れになっていると思った。

(8)第2話:堂島くんの家に招待され、小山内さんの提案でお土産にケーキを持参

〈アニメ〉部屋に入ると、小鳩くんが小山内さんが持っていたケーキの箱を奪い「あ、これケーキ。手ぶらじゃ、あれだと思って」堂島くんは「は?」と驚く。小鳩くん笑って「ま、発案者は小山内さんなんだけどね」堂島くんが「だろうと思った、どうも」と小山内さんに頭を下げる。続けて台所に向かいながら「ちょっと待ってろうまいココアがある。ケーキ先に食べてていいぞ」
〈原作小説〉部屋に入り少し大きめのテーブルを3人で囲む。小鳩くんと小山内さんが座布団に座ると堂島くんが「ちょっと待ってろ。うまいココアがある」と言い残して部屋を出る。

原作小説では自家製ヨーグルトの美味しい店に行くことをやめて2人で堂島くんの家に向かう流れだったが、アニメでは直前の商店街のシーンでサンマルクのケーキを奢るという話の流れで、手土産にケーキを買って行くことになっている。改変意図はわからないが、小鳩くんが小山内さんに従順なことを示しているのか?

ついでにどうでもいいが「ケーキ先に食べてていいぞ」と言って堂島くんは去るが、他人の家に手土産としてケーキを持ってきているのだから皿もフォークもない訳で、ケーキを先に食べることはできないだろう。それを示すようにココアが3つお盆に乗っているカットでは、同じお盆の上に皿とフォークが乗せられて共に運ばれてきている。普通に考えるならここの台詞は「皿とフォーク、今出す」とかが妥当だと思ってしまった。まあなんにせよ堂島くんが小山内さんに気を利かせていることを示したい台詞なのだろう。

そう考えると、最初に小鳩くんが小山内さんからケーキの箱を奪って説明したのは、堂島くんにケーキの皿とフォークを用意することを急かすためだったのだろうか?

(9)第3話:ハンプティ・ダンプティの前で待ち合わせ

〈アニメ〉小鳩くんが「小山内さん、またやけ食いするつもりかな」といってフフッと笑う。小山内さんが後ろから自転車を押してきて背後に立ち「ひとりで笑ってる?」小鳩くんは驚き「いつからいたの?」小山内さん「たった今」と言う。
〈原作小説〉小鳩くんは小山内さんと前回お店に来たときの事を回想し思い出し笑いをする。「ひとりで笑ってる……」と声をかけられ、自転車も足音も気づかず、小山内さんに後ろに近づかれた。笑顔を作り「ああ、いつからいたの?」小山内さん「たったいま」と言う。

このシーンは原作小説とほとんど違わないように見えるが、文章として読んだ場合と映像作品として見た場合とで印象が大きく違うように感じた。原作小説では、小鳩くんがハンプティ・ダンプティの店名の説明、お店のケーキの傾向の説明、そして小山内さんと前回来た時の思い出を13行に渡りしていて、感極まって笑っているところで急に「ひとりで笑ってる……」と台詞が入る。対してアニメでは小鳩くんを画面中央に配置してカメラ引きで全体を見せており、フフッと笑うタイミングに合うように画面左から小山内さんが自転車を押してインしてくるようになっている。

原作小説では小鳩くんは自分の世界に入っており、読者もその回想を想像し、思い出し笑いをしたところで読者は小鳩くんの表情を思い浮かべ、間髪いれず「ひとりで笑ってる……」の台詞が入ることで読者は小鳩くんと同じ印象で音もなく近づいた小山内さんに驚ける演出になっていた。対してアニメでは終始引きのシーンで小鳩くんが独り言を呟いて笑ったところに、小山内さんは自転車の音を立てながら背後に近づき声をかけるというシュールな絵面になっていて演出などはない。もしかしたら自転車を買い直したことを視聴者に伝えるために引きで見せたのかもしれないが、それなら次のカットで小鳩くんが「あ、自転車買い直したんだ」と言ったところで自転車を見せた方がいいのではないだろうか?このカットではカメラが小鳩くんと小山内さんをバストアップで抜いており自転車が見えず、台詞と画面の情報が一致しない。

ちなみに原作小説ではよく小山内さんが音もなく小鳩くんの背後に忍び寄り驚かせるカットがあるがアニメにはあまりない。小山内さんの誰にも知られず事を成す猟奇的なステルス性を醸し出す要素なのだが、アニメ版小山内さんはサイコパス感が薄くて残念な感じがする。そう言う意味では小鳩くんもサイコパス感が減少していて残念だ。ただのボーイ・ミーツ・ガールにまとめられていて本来の力を発揮できていない印象がする。

(10)スマホとガラケーの違い

〈アニメ〉劇中で登場人物はスマホを使っている。
〈原作小説〉劇中で登場人物はガラケーを使っている。小鳩くんは古い機種でカメラもついていない。小山内さんは物語中盤で新しい機種にしてカメラもついている。

正直、『春季限定いちごタルト事件』の一部トリックはガラケーでないと成立しないと思う。いや、確かにスマホでも成立するようにアニメでは改変されていたが、トリックが雑すぎて説得力が薄い。

このトリックというのはアニメ4話で小鳩くんが小山内さんからメッセージを受信するが、確認しようと開くと送信取り消しになっていて、小山内さんの身に何か起きてしまったのではないかと危機感を感じ、用心棒の堂島くんと急いで教習所に向かうが、実際は誤った写真を送ったので取り消して再送しようとしたが送られていなかったというもの。原作小説では小山内さんはガラケーのカメラで犯人の写真を撮り、これをメールで送信するも受信側の小鳩くんのガラケーは機種が古すぎて画像が表示できず真っ白になっていたという機械的な問題でミスリードになっている。

原作小説のミスリードは、小山内さんが真っ白な画像を送ることで犯人にはわからないSOSを小鳩くんに知らせ、これは教習所の白いファイルを示している…急いで来て…という可能性を演出しているように思えた。実際は機械的なトラブルでしかないのだが、機械的というのがミソで、人為的な要因なら注意すればそうならないんじゃないの?予定調和だなーと読者に思わせる隙を与えないことでリアリティを持たせることができていた。

また細かいところだが、第1話の放課後、小鳩くんはスマホで時刻を確認しているのに、第3話ではテスト終了後、学校にスマホを忘れて帰るというのはおっちょこちょいが過ぎないか?テスト中だからロッカーに電源を切って入れているかもしれないが、テストが終われば多くの生徒が電源をとりあえず入れてSNSなどチェックするのではないか?とも思ってしまった。ガラケーなら用途は電話とメールだけなので忘れることもあると思えた。

(11)第3話:壊れた自転車を見つけたときの小山内さんの台詞

〈アニメ〉「ドライバーさん可哀想、こんな所で自転車なんて引く羽目になっちゃって、それもこれも坂上のせい」「これきっと、踏んだの、坂上」「小鳩くん、昨日何があったんだと思う?」
〈原作小説〉「曲がってることは、いいの。でも、それ、踏んだ跡」「ここで踏んだの」「小鳩くん、きのう、なにがあったんだと思う?」

原作小説には小山内さんがドライバーを気遣う台詞はない。あるのは(後輪が轢かれて)曲がってることは気にしないという台詞で、ドライバーを直接的にわざわざ気遣うほど小山内さんは優しくない。それよりも犯人の行動を推理して、少しずつ追い詰めようとしており、猟奇的な匂いを言動で醸し出している。

(12)第3話:壊れた自転車を確認して犯人の行動を推理

〈アニメ〉自転車の後輪は車に轢かれて曲り、前輪のスポークには苛立った犯人が踏みつけた跡がある。
〈原作小説〉自転車の後輪は車に轢かれて曲り、前輪のスポークには苛立った犯人が踏みつけた跡がある。少し離れた場所の白線にスポークを踏みつけた勢いでついた前輪の跡がある。

原作小説では、少し離れた場所にスポークを踏みつけた時にできた跡が残っており、自転車の位置がそこからずれているという状況から、自転車の2種類の傷は別々の時間に他の人がつけたものであり、自転車泥棒がスポークの傷をつけたと推理を当てている。小山内さんの鋭い観察眼と推理力を示す重要なシーンだが、アニメでは単に自転車の傷を見て想像して苛立つだけに留まってしまい、このシーンの推理はほとんど小鳩くんのものになっている。

(13)第3話:堂島くんが小鳩くんに一言

〈アニメ〉堂島くんは俯き腕組みをして「何があったか知らないが、今のお前みたいにコソコソとこぢんまりした奴と俺は付き合いたいとは思わん。」顔を上げてそっぽを向き「昔のお前は嫌な奴だったが、俺は嫌いじゃなかった。」一息ついて「小市民とやらになりたいなら、勝手になればいい」小鳩くんは吹き出して高い声で笑う。
〈原作小説〉堂島くんは腕組みを解き、がりがりと頭をかいて「お前が本音を漏らしたみたいだから、俺もはっきり言おう。ダウンだかなんだか知らないが、今のお前みたいにこそこそこぢんまりとしたやつとは、俺は付き合いたいと思わない。昔の縁でこうして呼び出されてきたが、今なにも話さないなら、次はない。前のお前は嫌なやつだったが、俺は、嫌いじゃなかった。……小市民とやらになりたいなら、なればいい。だがな、俺はそんな奴の頼みを聞くのはごめんだ。」小鳩くんはしばらく堂島くんを見続け、わざとらしい仏頂面が照れ隠しだと気づき思わず笑い出す。

原作小説にはあるがアニメで削られたセリフは「①お前が本音を漏らしたみたいだから、俺もはっきり言おう。」「② 昔の縁でこうして呼び出されてきたが、今なにも話さないなら、次はない。」「③ だがな、俺はそんな奴の頼みを聞くのはごめんだ。」の3つだ。①は尺の都合で削られても仕方がないとは思うが、②の「今なにも話さないなら、次はない。」は堂島くんが小鳩くんに警告し焚き付けている重要な台詞であり、③の「俺はそんな奴の頼みを聞くのはごめんだ。」は直前の台詞で「小市民に勝手になればいい」と突き放しておきながら、堂島くんは小鳩くんと接点を持ち続けたいと思っていることを言葉に表していると考える。

原作小説では腕組みを解くことで小鳩くんに対して防御姿勢を解き、内心をはっきり言おうとしていることをボディランゲージで表現しているが、アニメでは逆に俯いて腕組みをしている。台詞を言い終わった後では、原作小説では小鳩くんは堂島くんの真意を探り、相手を理解して笑い出しているが、アニメでは「俺は嫌いじゃなかった」の台詞に反応して、何を恥ずかしいこと言っているんだお前はと笑い出していて、小鳩くんが堂島くんを理解していない。つまり原作小説では堂島くん⇄小鳩くんだったのにも関わらず、堂島くん→小鳩くんになってしまい、ある種の友情関係が成立しなくなっている。

(14)第4話:犯人の写真をリークし逮捕

〈アニメ〉市内のネットカフェに匿名で警告。念の為犯人の写真も添えた。不正免許でライブチケットを高額転売により犯人逮捕。
〈原作小説〉市内の消費者金融に公衆電話から匿名で「五百旗頭」の名前で金を借りに来る者がいたら注意しろと警告。その次の日には犯人の写真も消費者金融に届く。不正免許による詐欺未遂で犯人逮捕。

原作小説の時代はまだネット黎明期とだからとはいえ、匿名リークの方法(小山内さんの行動)に狂気を感じる。この狂気さが小山内さんの本性であり、どれだけ怒っていたのかを表し、日常ミステリーだったはずのシナリオにシリアスさを乗算させてくれる。アニメでは市内のネットカフェに警告したことになっており、なぜネットカフェに警告したのか意図が不明に感じ、狂気性が失われている。

なおアニメでは小鳩くんと小山内さんの会話による謎解きシーンで、小山内さんが「五百旗頭さんも気の毒ね」と五百旗頭さんを気にかける台詞があるが原作小説にはない。

日常的なはずなのに、どこか日常的でない要素が含まれるからミステリーとして成立しえるのが日常ミステリーの面白さだと僕は考える。それは、何気なく生きていたらどうでもいい些細なことと流してしまうものを、視点を変えればこんなに重要そうに物語れるというギャップがリアリティを感じさせながら物語に没入させてくれる要素になっている。

なぜ綺麗な駄作になってしまったのか?

さて、最後になぜこんなにも原作小説の持っていた魅力を改変してしまったのか?綺麗な駄作に留まっているのか?を推理してみよう

僕が思うに、この件は資料読解で片がつくー

(『春季限定いちごタルト事件』99頁7行)

アニメ『小市民シリーズ』は全10話で原作小説の『春季限定いちごタルト事件』と『夏季限定トロピカルパフェ事件』の内容をやるらしい。

原作小説とアニメでの相違点と一致点、つまり改変点と未改変点を挙げると、改変されたのはキャラクターの性格・個性を表現する言動、ミステリーの細部パーツ(携帯電話)やトリック(スポークの跡)、改変されなかったのは物語大筋のミステリーが主だったところだ。

次に小説とアニメという媒体の相違点を挙げてみると、小説は文字情報による表現で、言語によって丁寧に感情やストーリーを伝えることができる。反面、視覚情報は皆無で、文章表現によって読者の想像力を掻き立て補わなければならない。対してアニメは視覚情報に富んでいて、また音声(聴覚情報)もあり、表現手法が多様で製作者側が意図したイメージを正確かつダイレクトに伝えることができる。反面、綿密に設計しコントロールしなければ駄作になる危険を孕んでいる。

〈アニメと原作小説に関するポイント〉
・アニメではキャラクターの性格・個性を示す言動が削られた
・アニメではミステリーに関係する細部の要素が変更された
・ミステリーの大筋は原作小説と一致する
・街という環境設定は原作小説と一致
・キャラの設定は大枠で一致(主人公の実家が和菓子屋は不一致)
・時代設定は不一致(原作小説はガラケー時代)
・原作小説は文章による表現力が富んでいる
・アニメは作画が綺麗で安定している
・アニメはドラマとも思える写実的表現を重視している(背景・人物・演出全てにおいて)
・声優の演技に問題はない

日常ミステリーをちゃんと(わかりやすく)作るということ

これら情報を整理してわかるのは、小説をアニメ化するにあたり立てられたプランは「日常ミステリーをちゃんと(わかりやすく)作ろう」ということだろう。そのため、日常をリアルに描くために実在の場所を使いドラマともとれるような写実的なアニメーション表現を行った。ミステリーものだからヒントを画面内に散りばめ、それを拾うことで答えに収束できるようにし、答え合わせもわかりやすく行う。説明の難しいトリックは削ぎ落とす。ここから読み取れることは“アニメ『小市民シリーズ』の主眼は日常ミステリーであり、キャラクターではない。”ということだ、日常ミステリーを破綻なく成立させ、かつ難しい謎解きにならずに進行させるため、些細なパーツはは削ぎ落とされた。結果、ミステリー自体は極めてわかりやすく成立したといえる。

本来持っていた面白さとは何だったのか?

しかし、僕が思うに本来『小市民シリーズ』は日常ミステリーものの体裁を取ってはいるが、ミステリーの謎解き要素が主眼ではなく、謎解きに関わるキャラクターたちの感情や考え方の変化によって描かれるドラマが醍醐味だったのではないだろうか?アニメ『氷菓』と原作小説の「古典部シリーズ」が面白いのも米澤穂信先生の描く青春待った只中の男女が謎解きを通して人を認識し、苦い経験をしながら大人に近づいていくという心理描写の微細に魅かれるからではないのだろうか?

キャラの性格と思想を視聴者に伝えるための装置として日常ミステリーという皮を被らなければならないのに、“日常ミステリーを成立させるためにキャラを動かしている”状態になっていないだろうか?本質を見誤ったままアニメ化のプランを立てたばかりに、表面上は極めて綺麗に作られ、ミステリーも成立しているが、魅力的に見えない微妙な作品に仕上がってしまっているのではないか?

この作品、アニメ『小市民シリーズ』は日常ミステリーという要素が好きな人には刺さるかもしれないが、それ以外の人の興味を引くのは難しい仕上がりになっていると感じる。原作小説を読めば、日常をリアルに、ドラマのように写実的に表現しなくてもミステリーは成立するシナリオであることはわかる。それはつまり普通に作れば日常ミステリー好きを確保することは問題ないといえる。無難に作っても一定の客層が確保できるのなら、他の客層も取り込み日常ミステリージャンルに惹き込む戦略を取った方がより販路を拡大できるのではないだろうか?そのためにもキャラを掘り下げ、原作者がキャラに込めた意図を汲み取り、より魅力的に個性を表現する方にウエイトを置くべきではなかったのか?とも感じてしまった。

削られたはずのエピソード(「For your eyes only」)が、アニメ全体を通して表現されていると思えて、皮肉に感じてしまう…

(注:長々となってしまったが、これはあくまで原作ファンである一個人の意見である。悪しからず)

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