孤独とか結婚とか、日々の不安について

「ホント! 自分に『三十』なんて歳が来るなんて考えもしなかった。」
と、私たち二人は軽い調子のそんな会話で済ませてしまったけれど、その会話の中身が決して軽くなかったことは、こうして今でもその会話を忘れていないことが証明している。
保坂和志『三十歳まで生きるなと思っていた。』

まだ私がTumblrを熱心に利用していた頃、上記の小説の一節をリブログするときに大いに頷いた記憶がある。私も自分が三十歳まで生きるとは思っていなかった。

前回のnoteで軽く自分語りをしてしまったので、勢いに乗ってもう少し書いてみようと思う(といっても、この下書きを始めてからアップするまで1週間はかかっている)。

私の三十歳はいつの間にか迎えていた。必死に生きていたら三十歳になっていたという感覚だ。そして三十歳を過ぎてから、やっと心に少し余裕が出来てきた。そうなると、それまでただただ必死だったところに迷いが生じるようになった。そんな、いろいろ悩んだときや、夜寝るまえに虚無に襲われたときなど、もう一人の自分が、お前なんだかんだで親元を離れて一人で生きているだけで奇跡だよ、生きているだけですごいのだから高望みしてはいけないよと、よく自分を慰めたりした。そのような抑制がいいのかは今もわからない。

確かに思い返してみても、今生きているのは奇跡なのだ。十代の頃は三十歳の自分がまったく想像出来なかった。

なにせ、中学不登校、高校中退、大学留年して、やっと人並みの社会人になれたのは三十歳手前だった。三十歳になるまでは、とにかく生きるのに精一杯だった。今では笑い話に出来るけど、何月何日のライブのチケットがあるから、とりあえずそこまでは生きよう、みたいな日々が確かにあったのだ。

なんとかここまで生きてこれたのは、ひとえに精神的にも経済的にも支えてくれた親のおかげだ。家族にも周りの人達にも恵まれて、ただただ運が良かっただけだ。

しかし、運が良かったことは自覚しているが、同時に過去の遠回りからうまくリカバリー出来たという、少なくとも自分では成功体験と思っている経験から、自分が自己責任論に多少毒されていることも自覚している。他人に頼るのも苦手で、何でも自分だけでこなそうとする。それが後々、自らを苦しめないか不安でもある。

他人に頼らないのと関係するが、とにかく独りが快適だ。誰に気兼ねすることもない。友人もいるが、皆適度な距離感を尊重している関係だ。自分でもどんどん孤独になっているのを自覚している。しかしそれが強がりでないと言い切れるほどでもない。結婚したいという気持ちもなくはないが、周りを見てそれが普通だからとか、自分も普通の人生を送らなければという自意識過剰かもしれない世間一般の圧、そして親を安心させたい気持ちのほうが強い。そのような心持ちでパートナーを見つけるのは違うし、結婚に対しては複雑な気持ちで、つまり難しい。

今時パートナーがいなくたって、結婚していなくても全然大丈夫という風向きになってきたけれど、そもそも落ちこぼれている人が、人並みのプライドを持てる楽な方法は、とにかく稼ぐか家族を持つことなのではないだろうかと、そう考えると辛くなってくる。ナイナイ岡村さんに対する矢部さんの言葉は、全面的に同意出来ないとはいえ身に沁みる。人生を共にしたい人と出会えたら意識も変わってくるのだろうか。この辺はもう少し考えていきたい。

そうはいっても完全に独りでは生きてゆけない。どこかで誰かに救われている。夜、眠りに落ちる直前、横になりながら不安で心細くなることがある。こういう思いになるのは私だけではないと思う。ここまで生きてこられただけですごいことだと自らを宥めつつ、そっと目を閉じる。幸運なことに、今は目覚めると甲斐心愛さんの声が聴ける朝が待っている。その声は、灰色の日常を歩めるよう私の背中を押してくれる。独りで生きられると思っていても、結局誰かに助けられているのだ。

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