考えるということ。

私は一日中、24時間の内の眠っている間と集中している時以外、何かしらについて考えている事が多い事に気付いた。当たり前の事なのだろうが、本当に色々思案している。考えても仕方のない様な事から、答えが何通りもある様な事まで、暇さえあれば思考の海に飛び込むことが、何より好きなのだろう。
けれどそういう時は大抵、残す言葉は見るからに形が歪になってしまうので、書き留めないことの方が遥かに多い。勿体無いな、と思わなくもないのだけれど、キリがないから仕方ない。


実を言うと、一昨日残した言葉達は半分微睡みながら綴っていたのだが、覚えているのは久石譲氏のsummerのメロディと、加湿器から出る白い水蒸気だけなのだ。
時間があれば頭に浮かんだあれそれを、ああでも無いこうでも無いとひとり、考えているというのに、いちばん素直になるのはいつだって、眠る間際の静かな自分だけだった。


心を宥める時、そばにあるのは言葉だ。


私の元に届いた手紙を読み返しながら、返事を書く時は凄く、無意識になる。シーリングワックスを溶かして、垂らして、封をしてしまった言葉を私は覚えてはいない。
自分にとって誰かに伝えた言葉は只のギフトで、何となく贈ったものは覚えていても、それの具体的な値段や形やデザインを事細かに覚えておく必要はない。

それを受け取ってくれたかどうか、喜んでくれたかどうかだけが私の心を動かす要因になるだけで、そこにおいて自分の感情はもう、混ぜ込んだスパイスみたいなものだからわからないのだ。
大切に、してくれたらいいな。とは思う。君の為を思って、君の為だけに書く言葉だってあるから、どうか届きます様にと願うしかない。


私の周りにはアウトプットの天才が多く居るが、私はインプットに長けていても、それを発信することが酷く下手なのだとnoteを綴る度に思う。
誰が見ても理解しやすい言葉、お話というものを意図して綴っているが、そのせいで本当に言いたい事を見失いそうになることは少なくない。
自分の日記帳の中でまで他人を気遣わずとも良いのに、とは思うけれど、心地良い言葉を使いたいのは最早自分のエゴに近しい。


あぁ、誰かの言葉を食べたい。

手料理が食べたい、に近いのだと思う。普段は振る舞うことが好きな人間だって、偶に人の料理が食べたくなる時だってあるだろう。
勿論誰だっていいわけではなくて、私が好む人が良い。文通がしたい。書いた記事が読みたい。新しい観点から物事を見て、意見を交わして、同調ではなく真っ直ぐな瞳と言葉で私を優しく論破して欲しい。予定調和を、ぶち壊して欲しい。

穏やかな空間を好むと言うのに、自ら崩しにかかってしまう矛盾は、何故か甘美な気がする。

どうか今日という日が、誰かにとっては平和で、彩りのあるものでありますように。

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