樹山セイ

貴方の言葉が食べたいのです。

樹山セイ

貴方の言葉が食べたいのです。

最近の記事

らしくあるということ。

先ず初めに、今から話す内容は不特定多数の誰かに対して、考え方や在り方を否定したり拒否をしたりしている訳ではないという事だけは述べておきたい。私自身も共感性というものが人並みに、場合によっては人並み以上にあるものだからよくわかるのだが、(勿論言葉は注意して紡いでいるつもりだけれど)図星を刺されたような心地になるとどうも、気分を害されてしまう時があるのだ。誰が悪いわけでもない、けれど、理由のない其れほど胸を抉るものは無いからたちが悪いと思う。 閑話休題。 先程SNSでも呟いたの

    • 年が明けていた。 九割時世の流れの所為であると言えるだろうが、まるで他人事の様に時間が流れてしまった一年だった。師走とはよく言ったもので、世間が浮かれていく空気に比例して忙しなくなる仕事と、思う通りに動けない世知辛さに愚痴をこぼして駆け回っていたら2021。光陰矢の如し過ぎやしないだろうか。 やり残したこと、やっても反省点ばかりが残ってしまった事、様々な事柄に追いかけられながら追いかけ追い越して、降りた夜の帳に目を閉じて布団に逃げ込んだことは何度あっただろう。 言葉を綴る

      • 生きているということ。

        『セイさんは、一人で生きていけそうですよね。』 人伝いに聞いた、とある女の子の言葉である。そう言った経緯や関係性は割愛するが、それを隣で聞いていた職場の先輩は、受け取り方によっては悪口みたいね。と笑っていた。 反対に、言われた本人である私は、そうですね。なんて相槌みたいに笑いながら、心の中では喜んでいた。そう見えていたのなら、なんと思惑通りなのだろうかと。 時折、思い出したかの様に言うのだけれど、(表現が口汚くて大変申し訳ないのだが)私は人に嘗められる事がとても嫌いだ。

        • 蛇が妖になるまで。

          【その昔、一匹の白蛇がいた。 六尺に近しい大きさの其れは、大きさだけではなく、様々な事が他の蛇とは異なっていた。 蛇は元来昼行性と呼ばれ、人と変わらぬような生活を送る。小さな動物やそれらの卵を吞み、夜は敵と成りうるものを避けるように身を隠す。けれど其れは未だ躰が小さな頃から夜に生き、人より離れた場所で生きていた。 其れは賢く、時に狡猾に獲物を狙う。神々しいまでのその白き鱗を闇に隠して、姿を見たものは瞬きの間に其れの胃袋に入ってしまうと言われる程だった。 …つまり、本当

        らしくあるということ。

          弱いということ。

          言葉を吐き出すのに、久々に時間が必要な期間だったと思う。 今日は体調が良くも悪くもなかったので、昼まで布団の中で小説を読んでいた。最近漸く変えた新しいカーテンは遮光性が高く、ほんのわずかな隙間から入ってくる光で目が覚めたことが心地よかった。 寝ぼけ眼で捲って見た空が曇天であったことも、今朝の私には都合がよかった。三連休なんて馬鹿げたものの間も勿論働いて、七連勤最終日の昨晩だって、芳しくないシフトと予想通りの『予想以上の混雑』だったせいで、活力は無かったのだ。 ゲームでいう

          弱いということ。

          仕舞うということ。

          怒りを治める事は、悲しみを昇華する事と同じ位、体力も気力も使うと私は思う。大抵のことは好きな事をしたり眠ってしまう事でなんとかやり過ごす日々が多い自分ではあるが、そのやり過ごしたという事実すらも一時的なものでしかなくて、根本的な解決や自分の感情の理解と正しい対応をしない内は、本当にその場しのぎでしかないのだ。 楽しいひと時が終わると、無理やり上げていたやる気であるとか、そういった活力の火が消えてしまったように静かになる。 燻ぶった暖炉に火に薪をくべたり、空気を送る様な存在や

          仕舞うということ。

          いけないこと。

          ダメだ、と危険信号が出る。 常々、感謝の気持ちを忘れないでおこうとか、自分や自分の周りの大切な人が幸せである様に。なんてことを願いながら生きている至極平和主義な人間であるというのに、時折、どうしようもなく自分が『マイナス』の極を持たなければいけない。という概念に襲われることがある。 幸せであることはきっと、おそらく、良い事であるのに、微温湯につかる自分が醜く感じてしまうのだ。 ジョヴァン二の様に、みんなの幸のためならば、僕の体なんか、という口は何処に行ったのだろう。 周

          いけないこと。

          祝われるということ。

          『毎年金木犀の香りと共に、君の幸せを願っています。』 滅多に連絡を取らない、けれど確実に、友と呼べる人から連絡が来た。薄情な私は彼女の誕生日を覚えていないのに、きっちりお祝いの言葉をくれる素晴らしい人。 普段は少しくだけた方言で話すのに、文章の最後を丁寧な言葉で〆るのが彼女らしい。嬉しくて、そっとスクリーンショットを残したのは秘密にしておく。 先日迎えた誕生日は、思いがけず回数を重ねていて、正直3年前から歳を重ねた体感も実感も無い自分としては、「もうそんなに時間が流れたの

          祝われるということ。

          考えるということ。

          私は一日中、24時間の内の眠っている間と集中している時以外、何かしらについて考えている事が多い事に気付いた。当たり前の事なのだろうが、本当に色々思案している。考えても仕方のない様な事から、答えが何通りもある様な事まで、暇さえあれば思考の海に飛び込むことが、何より好きなのだろう。 けれどそういう時は大抵、残す言葉は見るからに形が歪になってしまうので、書き留めないことの方が遥かに多い。勿体無いな、と思わなくもないのだけれど、キリがないから仕方ない。 実を言うと、一昨日残した言葉

          考えるということ。

          集中するということ。

          例えば街中の雑踏の中、例えばレポートを書く学生で賑わうチェーン店のカフェの中、例えば静寂が周囲を包んでいても人の出入りが多い図書館。 こんな場所での私は、目の前の作業に手をつけることが全く出来ないタイプだ。 優秀な動画サイトのミックスリストや月額を支払っているミュージックアプリで作業BGMを選んで流しながら作業をしていても、本当に目の前のやるべき事に集中出来ているかと言われれば、答えはNo。 完全なる静寂で、聞こえるのは自分の声だけ。誰も居ない空間に「やる気がある時の私」

          集中するということ。

          何でもないということ。

          「神様になりたかったのか、私は。」  会話の流れから、ふと、そう思った。 神様だってひどいやつばかりなんだから、人間だってそうさ。 なんて言葉に頷きながら、今朝から悶々としていた思考のループは、相変わらず終着点が見えないままだった。掃き掃除をしている時も、昨晩の強制シャットダウンみたいな早寝だって意味を成してはいなくて、誰かと話す気分にもなれないせいで、何処に出しても恥ずかしくない『怖がり』な自分が世界中を敵に見ている。 綺麗ごとばかり並べて、美しいものを愛して、そもそ

          何でもないということ。

          波打つということ。

          昔から、『タイトル』をつける事が苦手だった。 作文や小論文を書くのは得意でも、じゃあそれに、題名をつけてみましょう。なんて朗々と言う担任の先生の顔は見ることが出来なかった。自分が思っている以上に感情が顔に出るタイプらしい自分が、あからさまに不貞腐れた、げんなりした顔だっただろうから。 以前話した『関係性に名前を付けること』が好きではない、という感情も似通った部分があるのかもしれない。 だからここでの記事は決まって書き終わった後に、その時浮かんだ事柄をぽつりと、タイトル代わ

          波打つということ。

          特別ということ。

          人との距離感がわからなくなることがよくある。 それは周りからすれば本当に些細な問題で、人によっては呆れてしまう程のしょうもない事柄だったりするのかもしれないけれど、でも、そんな小さな小さな綻びが、大きな溝にも幸福にもなる事がいくらでもあると知っているのだ。 今日は偶然取れた数カ月ぶりの週末のお休みで、以前から会いたいと思っていた友人を誘ってランチに繰り出してきた。彼女とはもう7、8年ほどの付き合いになるが、数少ない『学生時代の私』を知り、尚且つ時間と共に淘汰されてしまう人間

          特別ということ。

          そういう気分だということ。

          「春に死にたい。」 ぼんやりとそう思う様になったのは、ここ数年の話だったと思う。その言葉が頭に浮かぶのは大抵、満開の桜並木の下をバイクで走っている時や、風で足下に舞い上がる桃色の花弁に心躍る時だった。 花は好きだ。 ガーデニングが好きな母や、中学生の頃にフラワーアレンジメントの教室に連れて行ってくれた姉の影響も大きい。特別な日も、何でもない日でも、花を贈って喜んでくれる顔を見る事も好きだった。 桜に金木犀、牡丹に薔薇、秋桜はその中でも一際好きな花たちだけれど、見ていると死を

          そういう気分だということ。

          友と呼ぶということ。

          今朝は心地が良い目覚めだった。 雨がざぁざぁ降っていて、薄暗い部屋の中にしっとりとした空気が流れていて、いつもより布団から這い出るまでに時間がかかってしまったけれど、これが休日ならどれほど良かっただろうとばかり思っていた。 昨日は久しぶりに引きこもった休日だったので、身体と頭の切り替えが上手くいかなかっただけかもしれない。 けれど、なかなかに、悪くない雨だった。 仕事から帰ると、一通の手紙が来ていた。 近頃している文通の返事かと思ったが、予想は外れて、思いがけない友人から

          友と呼ぶということ。

          格好をつけること。

          連休を含めた連勤が終わった。 一仕事終えたときの区切りの時間は、普段以上に自分へとびきり甘くして、好き勝手に飲んだり食べたりすることを許すようにしている。 勿論限度はあるけれど、日頃ああだこうだと自身に制限を無意識に強いていた様だったので、少しばかり目を瞑るのだ。 こうやって自分の事なのに、あたかも他人事みたいにストレスという負荷を己にかける行為はまるで、呪いみたいだと思う。 私が無意識で行っている事の一つに、『格好をつける』、がある。 対象は場合により様々、けれど心の奥

          格好をつけること。