前回記事の補足/蛇足

前回書いたこちらの記事。想定していたよりも数段大きな反響があった。
深夜に自分の思いを書き留めたものがこれだけ読まれるとは夢にも思っておらず、汗顔の至りだ。
そして記事に対する反応を拝見していると、どうも私の意図した方向性とは違った捉え方をされていることが多いように思ったので、筆を執ることにした。
もちろんテキストというのはそれ単体で解釈されるべきであって、この記事は蛇足にしかなりえない。いくら「私はこういう意図があった」と書いたところで、読み手が読み取れない意図は用をなさない。私の未熟の結果だ。

次いで、この記事は言ってしまうと”ネタバラシ”的内容でもある。正直、前回の記事を読んで納得してもらえた人には読んで欲しくない気持ちがある。しかしそれは我が儘というものなので、今回の記事を読んだうえでもう一度納得していただけることを願う。

さて、前置きが長くなった。
これだけのマイナス要因がありながら記事を書いたのは、ひとえに争いを収めようとして書いた文章が、争いを生んでしまったことに因る。

前回の記事に込めた2つの意図

前回記事のタイトルは、「音楽系Vtuberの実写MVに感じる嫌悪感の正体」だ。まずこのタイトルが良くなかった。争いを収めるために書いたと言いながら、多くの人に読んで欲しいという欲目で過激なタイトルを付けてしまった。これについては反省している。

そして、このタイトルには嘘がある。

「音楽系Vtuberの実写MVに感じる嫌悪感の正体」とあるが、実は「正体」と言い切るには足りない。1つの仮説を示しているに過ぎないのだ。

より正確に言うと、これは「提案」だった。

実写MVに嫌悪感を感じる人に対しては、「あなたは実は実写が嫌いなのではなく、追いきれなくなるのが嫌なのだと考えたらどうですか?」という提案。
実写MVを嫌う人が全く理解できない人には、「こういう理由で拒絶の態度を取っているのだと考えたら、少しは彼らの存在を許容できませんか?」という提案。

まず前者から語ろう。

実写MVに対して反射的な拒絶反応を覚えてしまう人は、多くの場合「なぜ嫌な気持ちになるのか」という明確な理由を持っていないように思う。なぜそう思うかと言えば、「バーチャル」に拘る明確な理由を持っている人ならそもそも実写MVを見ない。「実写MVを倦厭しつつも実写MVを出しているVtuberを見続けている人」というのは、心の底では好きになりたい気持ちの方が大きいのだ。

そういった人々に「実は実写が嫌いなのではなく、追いきれなくなるのが嫌なのだ」という説明を与える。
問題の根っこをリアル/バーチャルの対立から引き剥がすことで実写MVを見れるようにしたかった。

この説明に何のメリットがあるかというと、Vtuber側に何の変化も求めないことだ。
”理想のVtuber像”を強く持ち過ぎたファンは、しばしばVtuber当人に自分の理想を押し付けようとしてしまう。今回の例で言えば「実写MVやめろ」といった具合にだ。これはどう考えたって良くない。
しかし前回記事の考え方を使えば、Vtuberを好きでいたい気持ちを肯定したまま、実写MVを見れるように意識を変えることができると思ったのだ。ファンが勝手に意識を変えるのだから、Vtuber側が表現に躊躇う必要は何もない。

そういうわけで、私は前回の記事で「Vtuberの表現は斯くあるべき」などということを書いたつもりは全くないのだが、そう読める文章になってしまっていたのだとしたら私の未熟として謝罪する。

次に後者。音楽系Vtuberをよく追っていて、実写どうこう言う人に辟易している人たちへのメッセージ。

だが、こちらに関しては完全に間違えていた。

私の意図としては「本当は彼らもVtuberの音楽を好きでいたいと思っている人なのだ」ということを示した上で「界隈を追い切れない絶望」という(おそらく理解可能な)説明をすることによって、「理解不能で偏狭な奴ら」という認識を払拭できないかというものだった。

ところが実際のところ音楽系Vtuberをよく追っている人たちというのは、そもそも「界隈を追う」という意識すらなく、「自分が好きなものを聴いていて、その中にV音楽がある」というタイプの人が多いようだった。

そういう人たちにとって「界隈を追うために音楽を聴く」だとか、「こういう音楽を好きな自分」を定義するために音楽を聴くなどということは甚だ不純であり、そのような音楽の聴き方に同情してくれというのは大変失礼な話であったと反省している。

おわりに

以上で前回記事の補足(というより反省か)を終える。
今後も、勝手に苦しんでいるオタクが勝手に救われるような文章を目指して筆を執っていこうと思う。

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