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「蛇の道」2024版感想〜人間をモノみたいに扱うな〜

 心が壊れた人たちは、まるでルンバのように、無機質に、行き当たりばったりで彷徨っている。新島(柴咲コウ)は凍りついた表情で、男をたぶらかすかのように、地獄へ引きずり込んでいく。心療内科で放心状態だったアルベール(ダミアン・ボナール)を見つけた時、新島はどんな言葉を掛けたのか。

 この映画では終盤になるまで、新島の動機が曖昧で、一方アルベールは自我や意識が曖昧で、何が目的なのか観客にはっきり捉えさせない。そこで描かれるのは暴力である。人を人でないかのように引き摺り回したり、殺したり、殺し合わせたり、食べ物を地べたに落として与えたり、糞尿を漏らさせたり、水を浴びせたりする。新島とアルベールは紛れもなく残忍であり、悪であるはずだ。
 しかしながらその行為は相対化されない。つまり、その行為に対する他者からの評価が描かれない。普通の映画だったら(何をもって普通の映画としてるか曖昧だが)、警察の介入があったり、監禁されている男の家族から干渉があったり、暴力を正当化するような内面(復讐だから仕方がないとか)が描かれても良いはずだ。ところがここでの暴力はとても閉鎖的で、誰の目にも留まらない、人の良心にも顧みられない、ただ純粋な行為である。
 
 ワンシーン、トランクに死体を詰め込んだアルベールの車が、駐禁のために警察に目を付けられるが、新島の交渉(大したことはしていないのだが)により、不運にも見逃されてしまう。
 ここで登場する警察は皮肉としか言いようがない。完全に機能不全である。映画終盤で明らかになる財団の卑劣な行為が、見過ごされ社会にのさばっているのはこのためである。宮台真司風に言えば、暴力が誰の目にも留まらないのは、社会がクソだからで、良心の呵責がないのは、人間がクズ化しているからと言った感じか。つまりこの監督は、前提として社会が終わっていて、どんな登場人物の心も壊れているから、それを相対化する視点を描かないという選択をとっているのではないだろうか。

 映画が終盤になり、一度目的を見失っていたかに思われた計画は、新島の動機が明らかになることによって、すべて新島の計算通りだったことが分かる。児童の人身売買は実際に行われているようで、しかも子供を組織に売り渡したのは、アルベール自身だったという衝撃の事実も判明する。アルべールは子供を殺された復讐心に燃えているかに見えたが、「メメント」さながら忘却の技を身につけていただけであった。
 そしてラストシーンでは、日本で離れて暮らしている新島の夫(青木崇高)が、新島の子供を組織に売り渡したことが匂わされて幕を閉じる。このシーンではビデオ通話をしており、直前のセリフで夫は「俺たちやっぱり相性いいんだよな。一緒に住んでいなくても時々ビデオ通話で顔を見れるだけで落ち着くんだ」と、のほほんとしたことを言うが、直後に新島から「子供を売り渡したのはあなたね」と指摘を受け、狼狽し、新島の睨んだ目線でエンディングとなる。
 新島の推測が本当なら、夫は、子供をモノとして売り渡し、妻においても、画面越しでたまに顔を見れば足りると言う、まるでモノのような扱いで充足していることが分かる。これが新島が男たちを弄ぶようにして、暴力を振るっていた源泉になっているのか。人はモノのような扱いを受けると、他人をもモノのように扱ってしまう。

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