合理的でないものさし

うちの組織が腐っている。

ようはトップが強大な権力を持ってしまっている老害なのだ。

その実力に関しては自分では測りきれない。
ただ、うちの組織の性質上、経営者としての手腕というものが明確に数値化できるものではない。そのため、声が大きいとか、地域の有力者や行政に顔が利くといったポイントが評価の対象になりやすい。そういった意味では実力者ということもできるのかもしれない。しかし今回はその点を問題にしたいのではない。そのトップを取り巻く人々について考えたいのだ。

この世の中に賄賂というものがあることは知っていたが、そしてそれはこの国のどこか知らないところで行われているものだと思っていたが、まさか自分達の組織でそれが行われているとは思わなかった。

まあ噂の範疇は出ないが、事実であってもなんら驚きはない状況ではある。自分がポストに付きたいがために会長にお金を積む。まあよくありそうな話だ。でも一体何のためにそんなことをするんだろう?

1.出世欲
今まで働いてきた職場でトップに上り詰めたいという欲望は誰しもあるだろう。それが実力をきっちり評価されたものでなくてもだ。サラリーマンとしては自然なことであり、単純な欲望である。

2.金
出世欲の一部とも捉えられるが、よりよいポストに付けば収入は増えるだろう。一時的に会長のケツの穴を舐めたとしてもその後の収入で十分ペイできるのだろう。

3.慣習
今偉いポストについている人達がみんな袖の下を通しているのだとすれば、そうすることが当たり前になっているのかもしれない。むしろそうすることが偉くなった証なのだとすら思われている可能性もある。あいつはあいつより多かった、そんなにも出したのか!?といったようなゲーム感覚になっているかもしれない。

4.権力に平伏したがため
ある程度上の役職につけば会長と公私含め関わることは不可欠である。そんな時自分だけ仲間外れにされたら困る、自分だけやり込まれてしまうかもしれないという不安だ。会長の当たりの厳しさの中に"お前だけ額が少なかった"というニュアンスを読み取ってしまう重職もいるかもしれない。

5.日和見主義
どうせこの先定年まで長くないし、変に波風立てるよりはそれでおさまるならそうしておこうという考え方。

6.思考停止
会長は偉いから会長の為すことが正しいのである、会長はお金を積むに値する人物である。付いていけば自分も間違わないと信じて疑わない。

あれ、なんか、賄賂、渡さない理由が見つからなくなったきた笑
果たして自分がその立場に置かれた時に、賄賂を渡さない選択ができるだろうか。

ここで試されるのは、仕事が出来るかどうかではない。先を見据えた計算高さではない。現実的に生きることではない。試されるのは、信念だ。誇りだ。勇気だ。アイデンティティだ。ロマンだ。孤独だ。
だがあっけなくもそれらは、まるで砂漠に転がる動物の死骸のように、上手くなった言い訳と、重くなった過去にまみれて見つからなくなってしまうだろう。

合理的な判断をすることが、常に良いことではない。
誰にとって?
合理的な判断というのは常に自分にとって都合の良い判断である。
つまり合理的ではないものさしというのは、誰かの価値基準だ。
誰かはとは誰だ?
神かもしれない。友人かもしれない。敬愛する人かもしれない。考え方それ自身かもしれない。
大事なのは自分の人生と矛盾するような価値基準をどれだけ内在出来ているかだ。
俺が思うカッコいい人はそういう人だ。
それにどれだけ自分の人生を投げ打てるか?
どうやらそこに美しさのヒントがありそうな気がするんだが。

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