仕事の楽しいと、誰かが積み上げてきた楽しさを消費してきたことへの反省と、チームで仕事をするということ。

仕事が楽しい、職場が楽しいと思ったことはほとんどありませんでした。もちろん、面白い人や面白いテーマの何かと出会うことはたまにあったのですが、それらに対して何かしらの感情を持つことはありつつも、楽しいとは、楽しむとは、それが何なのかはよくわかっていませんでした。

そんな私が「仕事の楽しい」を素直に腹落ちさせることができたのは最近の話です。今のチームメンバーと働くうちに、楽しいな、面白いな、もっとやっても良いんじゃないかなと思うことが増え、「仕事の楽しい」という部分をやっと腹落ちできたのでした。

「仕事の楽しい」は誰かが積み上げてくれた楽しさの消費の中では生まれないことや、誰かが積み上げてくれた「仕事の楽しい」はすぐに消費されて、いつのまにかつまらない仕事になってしまうこと。その事実にふと気付いた時に、「楽しいを積んでいくこと」自体に「仕事の楽しい」があるのだと、そしてそれを自然と生み出せるチームで何かを生み出すことが「楽しい」のだと、すんなり腹落ちしたのでした。

世の中へのインパクト、ミッションクリティカルなプロジェクト、少数精鋭での革新的な新規事業。それらはもちろん素敵なことなのですが、私はそれらにずっと違和感があって、素直に楽しめませんでした。そんなカッコよくて難しいことではなくて、普通のひとの「いつもの仕事」が少しでも楽しくなって、チームの仕事の成果として生み出されるモノたちがより素敵なもののになれば良いなと思ったので、私の今年の気付きをシェアすることにしました。

仕事が楽しいという言葉の圧迫感がもつ息苦しさ

そもそもとして、私は特に仕事が好きではありません。日々の生活のためと、暇つぶしの一環というくらいの位置付けです。他方、仕事が楽しいと心から言える人や、仕事が生きがい、仕事のために生きていると豪語している人たちと関わることも多く、彼らの大切にしている事柄を蔑ろにしたくないという気持ちと、そして何よりも彼らが発するキラキラとした何かが生み出す独特の圧迫感をうけ、仕事という言葉自体に息苦しさを感じる事もあります。

彼らにとって仕事は楽しいものであって、仕事を楽しめない人に対して向けられるあの冷めた目線、あの独特の雰囲気、そんな部分が相入れなくて、彼らとはいつの間にか距離を取るようになっていました。

与えられた場所で楽しむという言葉に対しての嫌悪感

彼らほど仕事が好きではないにせよ、ぱっと見は仕事を楽しんでいるように見せ、日々のちょっとした達成感と満足感を充実感と読み違える技術に長け、違和感を押し殺しながら仕事を続けている人種とも出会うことが増えました。

彼らは口を揃えたかのように、「せっかく時間を使うんだから楽しまないと損。」「今いる場所で精一杯楽しむ工夫をしている。」といった言葉を発しています。一種の洗脳のような彼らの言葉には違和感を通り越して嫌悪感があり、彼らの善意のアドバイスには、仕事の楽しいを生み出すための明確な根拠も技術も何もないのが印象的でした。

仕事として割り切るという諦めの言葉と関わることの無意味さ

「仕事だからしょうがない」と割り切る人種もそれなりに見てきました。彼らは大変に愚痴が多く、話を聞いていて大変に疲れてしまうことが多々ありました。現状を変える努力はとうの昔に諦め、その上でどこか他人事として諦めているその姿に愉悦感すら覚えているようでした。

ひとの考え方はそれぞれと言ってしまえば終わるように思えるこれらの話ですが、実はそんなに単純な話ではなかったりします。チームで仕事をする中では、このような仕事の仕方をするメンバーがいること自体がチームの士気を下げ、アウトプット全体の質の大きな低下を招いてしまうからです。

マネジメントにまわったときのこの人種の面倒さは計り知れないものであり、個々人の思想として仕事が好きである必要は無いと思っているものの、チームの雰囲気を悪くするメンバーに対してどう接していくべきか、どうあるべきかということをいつの間にか考えるようになっていました。

仕事が好きと仕事は楽しいは別の話であることの確信

今自分が一緒に働いているチームは、決して仕事好きの集まりというわけではありません。家族事情が最優先ですし、ハードな働き方をするメンバーは誰もいません。とはいえ、今の仕事を楽しんでいるメンバーがほとんどで、チームの雰囲気も贔屓目なしに良いと感じています。つまり、仕事が好きということと、仕事が楽しいということは全く別の話ではないかという気付きが自分の中で生まれていました。

好きでなくても楽しめるというのは、自分の中で大きな気付きでした。つまりは、仕事嫌いな人が揃ったチームであったとしても、何かしらの楽しさを感じ、その上でより良い成果を生み出していくことが出来るのですから。

事実を受け入れることと、そこに対してのポジティブな感情を上乗せしていくこと

チームで仕事をする中で気付いたこととして、「事実を事実として受け入れること」の大切さがあります。実現可能性のない夢物語を語り、それによって人を動かす事も勿論出来るのですが、これらは時間制限付きの麻薬のようなものです。持続可能性を持つチームでのモノづくりにおいて、夢物語は悪でしかなく、百害あって一利なしとすら考えています。

他方、事実を受け入れるということを、多くのチームでは避ける傾向にあります。とはいえ、事実を無視した「楽しさ」には土台がなく、それ以上に楽しさを発展させていくことはできません。

良い雰囲気のチームは、まずは事実を受け入れることを自然と行なっていました。良い事実も悪い事実も平等に受け入れ、その上で自分たちの思うポジティブな感情を上乗せしていっていました。売上が下がったときにそれらを責めるのではなく、ちょっとした軽口を挟みながら、ポジティブに次どうすべきかを考えられていました。

よく見ていると気づくのですが、これらは自然と発生しているものではなく、一種のデザインされた感情たちでした。チームの雰囲気を下げないこと、それによってより良いモノを作れる状態を保ち続けること、そのような状態を守るためにチームメンバーそれぞれが意識し、「あえて」軽口を発したり、「あえて」いつもよりポジティブな発言をしていました。

そのわざとらしくない「あえて」の積み重ねが、チームで仕事をするうえでの「楽しい」を守っていました。

楽しさはみんなでつくり、みんなで守っていくもの。

当時勤めていた会社の社長から会社の雰囲気をきかれた時に、「楽しくない」と当たり前のように答えていました。「あえて」を積み重ねることをするわけでもなく、誰かが積み上げてくれた楽しさを当たり前のように消費していたことにも気付かずに、「楽しくない」と言い切っていました。当時の自分には反省しかありません。

冷静に振り返るならば、当時のその会社には楽しさを積み重ねていく人が殆どおらず、多くのメンバーが楽しさの消費だけをしていました。雰囲気のよくないチームの典型のような働き方をしていたように思えます。その結果として、仕事の楽しいはどんどん少なくなり、ひとり、またひとりと辞めていき、成果としてのモノの質もどんどん下がっていました。

良いチームの空気は、誰かひとりがずっとつくり続けられるものではありません。最初の少しの期間はそれらをひとりでつくり出せたとしても、ちょっとしたことで崩れてしまいます。だから、みんなでつくるものなんです。雰囲気が悪い場合、それはみんなが作り出した雰囲気の悪さなんです。

ひとりにできることは限られています。でも、そのひとりの「あえて」が伝播していくことで、チームの、仕事の楽しいがつくられていくのも事実です。もしみんなが「あえて」を繰り返すことができたのであれば、そしてそれを続けることができたのであれが、より良いチームが生まれ、楽しい仕事とともに、良いモノが世の中に生み出されていくと信じています。

そのみんながいないときは、自分がまずはみんなの一人になるのも大切ですし、それが難しければ、みんながいるチームに移るのも「自分の楽しい」を守るためには大切なことだと、今は思っています。

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