見出し画像

きわダイアローグ12 齋藤彰英×向井知子 1/3

1. 位相が切り替わる


///

向井:今回、ダイアローグから何か事柄を生み出せるのかということを試してみたくて、齋藤さんをお誘いしました。齋藤さんは以前「自分の中で体を外界に同化させていく、あるいは外界を自分の中に見つけていくという肌触りの実感に対して、写真家(もしくは写真には)テキストが必要なんです」とおっしゃったでしょう。わたしはそれに違和感があったんです。例えば「東京礫層:Tokyo Gravel」の展示では、そこにある写真に対してテキストを書かれていましたよね。でも、それを読んで、そのテキストをどう収めていいのか分からないのではないか、そういうことをしたいわけではないのではないかと思ったんです。そのとき目についたのが、展示会場に置いてあった石。この石たちの座りの悪さは何なんだろうと感じました。前回のダイアローグで、それらを自分で磨いていらっしゃるという話を聞いて。やっと、こっちがテキストなんだなと気づいたんです。磨くことが遊びに近い感覚だとおっしゃっていましたが、手を動かしている段階では話し言葉に近いものなのかなと。

わたしにとってもテキストの問題は大きいものです。わたし自身が言葉の人間ではないので、言葉をどうするかいつも考えてしまうんです。ただ、やっぱり何かをつくるときには、言葉にならないものを言語化する行為は重要だとも思っています。言葉そのものが、言い表せないものを表すために生まれた人工的なものですよね。わたし自身は言葉の人間ではないにもかかわらず、言葉のもつ可能性や、この世の中にある言葉に対して信用や信頼はあるのかという部分には興味があります。個人的な話ですが、この1年半、たくさんのお医者さんにお会いする機会がありました。命の最前線にいる彼らの言葉においては、疑いや想像、憶測の余地をもたせないことがすごく重要だと思ったんです。過度の期待や不安、憶測みたいなものを生み出さないよう、事実を淡々といかに厳密な言葉を選んで伝えているというか。膨大な量の臨床データや目の前の患者のデータを読み解きながら目に見えない病態を突きとめていくのですが、それに対する治療も実はやってみないとわからないことも多く、これだけ医療が発達しても治療は何が起こるかわからないもの、手探りなんですね。だからこそ、ぼやっとした言葉や、流れてしまうような言葉は使わない。

齋藤:余分なものは削いで、含みをもたせない。

向井:特に、精神科や認知症科の先生たちは言葉そのもの、そしてそこにある呼吸すらも含めて治療といえます。決して期待をもたせるようなことを言うのではなく、含みをもたせないで、そのものを語るわけです。内科や外科の先生方にも伺ってみたのですが、言葉も治療なんだっておっしゃいます。芸術の分野というのは、実社会の中で解決しないことや折り合いがつかないようなことと向き合っているのではないかと思いがちですが、命の最前線にいるお医者さんが発している厳密な言葉には敵わないなと実感しました。それから、科学者たちの言葉にも含みがないですよね。彼らは言葉にならないようなことを解明しようとし、そして、それを一生懸命言葉で伝えようともしています。その内実の恐ろしさを知ったうえで、どのように伝えていこうかと取り組んでいますよね。
そういうことを実感して、今回の展示でも、非言語的な言語を置いていくことと、非言語的な言語の兆しを含んだデータを見せることをしたらいいんじゃないかなと思っています。「きわにたつ」を開催したときには、開催に伴ってインスタを定期的に更新しました。その際、写真と併せて撮った場所の緯度と経度を載せていたんですね。例えば、そういったものや、調べていくなかで気になっている数値や言葉などがどこかにあってもいいのかなと思っています。
わたしは、この展示自体をいわゆる協議の「美術」じゃないものであってほしいんです。今さまざま専門領域の内部には閉塞感を感じます。齋藤さんも、むしろ子どもと遊んでいるほうがずっと面白いっておっしゃっていましたよね。なので、何か生成されていくものがあるとすれば、「領域の外、領域のきわにものが生まれている」という感覚がすごくあるんです。だからこそ、単なる映像とインスタレーション、美術の展覧会にしないほうがいいなと考えています。

齋藤:分かる気がします。例えば、現代美術の場合は作品の目的をすごく削いで、キリキリさせながら、あるキーポイントに向かって構築します。その鋭さが面白さとしてある一方で、今はある種とんち勝負みたいになってきていますよね。それによって、だんだん美術とは言えなくなってしまっていたり、ソリッドに詰めていく感じに疲れてついていけなくなっていたり……という状況になっています。美術って本来、もうちょっとむにゃむにゃしていたり、形が表になったり反転したりしているものじゃないですか。この展示も美術の文脈に沿っていない形で構築した結果、最終的に美術的な要素が出てくる感じになればいいのかなと思っています。いわゆる美術らしい思考でつくっていく感じではないほうがむしろいいのかなと。そういう意味でのイメージは共有できた気がします。

向井:異なる位相は常にたくさんあって、でも、わたしたちはそれを滑らかに行ったり来たりしているわけではないんですよね。あるきわをもって、その瞬間違う位相に切り替わるっていう感覚があるんです。
ものを構築するときって、相手に伝えるために、どうやって自分の中にあるものをつなげてつじつまを合わせるかを考えますよね。それはときに必要なことですが、実際の世界では、誰もがある瞬間から切り替わって生きているんじゃないかなと思うんです。別につながっていないけれど、矛盾しているわけでもない。齋藤さんの写真を見て、そう思ったんです。前回お話しされていた、土の中の身体性みたいな感覚的な場面もあってほしい一方で、地上にいるときの現実的な感覚が伝わる場面も、展示の中であってほしい。そのくらい、世界はさまざまな切り替わりに満ちていて、整合性がなく構成されているじゃないですか。

齋藤:そうですね。バラバラというわけではないけれど、順序立てて、しっかり構築されて、ひもづけられているというわけでもないと思います。何か一つを越えると、違うところに切り替わる。

向井:そういったことが体験できる場になるといいなと思っていますね。加えて、わたしと齋藤さんの違いって明らかにあるので、それも展示で見せたいんです。わたしは、映像を使って制作しているときって眺めることを意識していますが、齋藤さんが多重露光、長時間露光しているときは完全に物質的じゃないですか。写真家ってイメージを映すと言うけれど、全然目の仕事をしているわけではないですよね。

齋藤:見えていないですから(笑)。

向井:石を磨いたり、デッサンしたりしているという話を聞いたときに、この人って視覚は使っていないんだなと感じました。とはいえ、地上を撮っているときには、必ず齋藤さんの視点があるなと思ったんです。わたしはわりと、誰が見てもそれぞれの記憶にスイッチするように、抽象度をもたせることで、いろんな人の視点が重なってくるような作品にしているところがあります。作品が自分から離れてくれないかなと思っているくらいなのですが、齋藤さんの作品には、あなたがいることをすごく感じます。被写体を撮っているというより、あなたの目で見ているような気がしました。

齋藤:『東京水辺散歩』で撮った写真は、仕事ということもあって極力自分の視点ではないようには意識していました。日常的な自分の興味に合わせて撮ってはいましたが、できるだけ客観的にしているつもりだったんです。それでも、やっぱり視点は出ているんですね。

陣内秀信、松田法子、齋藤彰英(著)/山本敦子(編)
2022年、技術評論社

向井:客観的に撮ろうとしているのも伝わりました。でも、齋藤さんが社会で生きていくときの座りの悪さや居心地の悪さや、社会に合わせている自分といったものを、そのままの僕が見ている感じとでもいうのでしょうか。わたしも同じ場所を撮っているし、そこを知っているけれど、写真からは齋藤さんがここで立って見ているものを見たという感じがすごくしたんです。

齋藤:それは嬉しいですね。

向井:そういう意味で、あなたという生態を見せてもらった気がしました。以前、人間が社会生活の中でお祭りなどの儀式で、異界へのきわをつくっているという話をされていましたよね。そういったものが、あなたの中にもあるなと思ったんです。例えば、会場となるここはお寺で、死者の場所だと思われがちですが、結局は生きている人のためにあるわけです。そういったスイッチは見えにくいですけれど、やっぱり、わたしたち個人それぞれの中にもあるじゃないですか。

齋藤:自分のスイッチを切り替えるための、意識的な行為や環境、時間といったことですね。

向井:社会的なスイッチもありますが、齋藤さんの場合『東京水辺散歩』のための自分と、ほかの個展でやられている自分とのスイッチもあるでしょう。しかもそれって平均的に出てくるものでもないじゃないですか。先ほども言ったように、多層な位相があるということなのかもしれませんね。

///

齋藤彰英(さいとうあきひで)
水が作り出す景色をテーマに、写真を用いたインスタレーション作品を制作。主に、糸魚川静岡構造線やフォッサマグナなど、日本列島の形成過程を記憶する場所や、その土地に育まれた文化を対象にフィールドワークを行い制作活動を行なっている。近年は、首都圏の地下に広がる地層「東京礫層」に着目し、太古の水が作り出した扇状地としての東京と現代の東京との繋がりを作品制作の題材としている。

向井知子(むかいともこ)

きわプロジェクト・クリエイティブディレクター、映像空間演出
日々の暮らしの延長上に、思索の空間づくりを展開。国内外の歴史文化的拠点での映像空間演出、美術館等の映像展示デザイン、舞台の映像制作等に従事。公共空間の演出に、東京国立博物館、谷中「柏湯通り」、防府天満宮、一の坂川(山口)、聖ゲルトゥルトゥ教会(ドイツ)他。

▶▶▶次へ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?