きわダイアローグ11 齋藤彰英×向井知子 3/3
3. 水がつくり出した景色である地形
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向井:そういえば、先日息子に「猿人に今の知識や技術を教えたらどうなると思う?」と聞かれたんです。「手を使う」テクノロジーに関しては、明らかに昔の人のほうが長けていると思っているので、「彼らの知能は今の人と同じくらいか、むしろもっと優れているかもしれないよ」と答えました。今の人間は、機械を使ったり計算したりすることに関しては進歩しましたが、例えば、今、急に「ここに穴を掘れ」と言われたとしても、自分の力では無理だと思ってしまうじゃないですか。
齋藤:そうですね。まず忍耐力がもたないと思います。それから、時間に対する尺度が昔とは異なりますよね。「掘った穴は世代をまたいで活用される」といった思考があまりない。それは、個人というものが大事にされるようになったからだと思います。昔は、家系に代表されるような、自分が生きる時間を超えた長い尺度での見方や、そこに対しての価値観が強かったと思うんです。今はそれがなくなったおかげで自分の時間は取れるようになりましたが、自分が生きられる時間には限りがありますよね。そうすると、他の余分なことには使いたくないと考えるのが普通です。手先の器用さといったことは、ある種鍛錬の結果ですし、今の人もやればできるようになると思いますが、そこに至るまでの時間を自分の人生において掛けられないのではないでしょうか。1時間、下手したら20分ですら、惜しむ状態になっていますから。
ただ、肉体的には猿人とそんなに変わっていないと思います。とはいえ、日本人も食べ物が変わって、体がだんだん欧米化して大きくなっていることの影響はとてもあると感じます。例えば山で仕事をしている人って、おじいさんやおばあさんになってもぴょんぴょん跳ねて仕事をしているじゃないですか。それにはやっぱり体の大きさも関係しているんだろうなと。
向井:すばしっこいってことですね。
齋藤:あの大きさだからこそ、支えられる部分もあるんだろうなと思います。僕より大きい人では、そういう動き方は物理的に無理な気がしますから。基本的にはそんなには変わっていないと思っていますが、神経は退化していそうですね。手先の感覚は違うんでしょうか。
向井:話が少しずれるかもしれませんが……。わたしは、作品の素材に使う写真の元がなんだったかが見えないくらい抽象化することがよくあります。でも息子は、作品を見て元の写真が何だったか分かるようなんです。
齋藤:知覚する解像度が違うということですね。
向井:単純に子どもだから分かるというより、わたしたちの世代と目の使い方みたいなものが違うのでしょう。見ている画面の読み取りが速いんです。
齋藤:映像に慣れているということではないでしょうか。映像を読み解くことやモニターに慣れている。僕らの世代って、テキストをモニターで読めないという人が多いですよね。それは、モニターで読むことを精神的にシャットダウンしている部分があるからかもしれません。子どもにはそういうフィルターがなさそうですよね。
向井:息子の学校では、教科書がすべてiPadに入りました。紙の教科書は学校に置いておいて、家で宿題をするときはiPadを使っています。でも、それに関して息子は「紙のほうが読みやすいかな」と言うんですね。そう考えると、小さい頃からiPadに使い慣れていたからといって読みやすいわけではないようです。ちなみに、わたし自身は読むためにはモニターのほうが楽だと感じています。本は見たり触ったりするもので、必ずしも読むことに集中できるわけではないんですね。ただ先ほども言ったように、画面に見えているものが明らかにわたしたちと違うと思います。
齋藤:向井さんの息子さんだけがそうなのか、他の子どもたちにもそう見えているのか気になります。どういうふうに見えるのか、試してみたいですね。
向井:そうですね。相対化できる話ではないのかもしれません。テクノロジーの発展や社会構造の変化の中で、わたしたちの世代と別の世代で知覚の仕方や身体性がどう違うのかは興味があります。進化上、特にこの数世紀における人類の知覚の変化はわたしたちが思っているより、はるかに速いですし。
話題が変わりますが、今後の制作について少し話をすると、神田川と玉川上水はもう一度歩こうと思っています。玉川上水はちょっと気が澱んでいる感じがありますよね。元々すべて人工的に構築されている水路ですし、人の生活に近いからか、人間の歴史の濁りや沈着があるのでしょうか。だからか、玉川上水は歩くのに気持ちいい場所ではないんです。
齋藤:生活の気が入り込んでいる感じって面白いですね。玉川上水って、思いっきりきわじゃないですか。南や北に両方に水を分水させて、無駄なく都心まで流し込む。それって自然ではないですよね。川であれば低地へ流れていきますが、上水は上を流して落としていく構造になっています。だから、ちょっと澱んで感じるのかもしれません。
向井:今は湧いていないですが、もともとが湧き水の神田川とは違いますよね。
齋藤:神田川は自然地形ですしね。やっぱり、川底が見えたりとか。
向井:おっしゃるとおり、川底が見えるんだけど、玉川上水は深くて見えない。今はそんなに水を張っていなくても川底が見えない。神田川はいまでは人工的に整備されているけれど、それが自然と捉えられるものがある。
そういえば最近読んだ本には、国分寺崖線がちょうど海抜50メートルくらいで、それに沿って湧き水が出ていたと書いてありました。地下水脈との差が薄いからか、湧きやすかったと。湧き水にあたる三方池や善福寺あたりもウロウロしようかなと思っています。崖線のところに並んでいますよね。
齋藤:湧き水とはいえど、今はもう湧いていないんですよね。僕もその辺りは全部回ってきましたが、かなりコントロールされた水辺になってしまっています。だから、撮影して視覚的な表現をしようとしても、場所の力がなくなってきていますね。これからどういうところを撮るかはもう少し考えようと思いますが、現状では、上流から下流に流れていくもの、堆積させていくものといったイメージを持っています。
向井:例えば『東京水辺散歩』の撮影もそうだったと思いますが、水のお仕事は地形が歩けていいですよね。東京の下流で堆積感のある場所では、どういったところが挙げられますか。
齋藤:東京ではなかなかありません。下流になればなるほど堆積しない状態になっていますし、ゴミさらいもされてしまうからです。それに、乗っかったり引いたりというやりとりをできる空間というか、きわのゆらぎがないんです。合間がないというか、間際がない。ですから正直なところ、東京都心部の水辺を歩いていても、面白いのですが面白くないんです。東京の水辺を考えるには、ピンポイントで川べりを見るのではなく、どこからこの水が流れていて、どういう経路を辿ってここに来ているのか、より広域な視点をもって頭の中で想像しながら川を見ないと、なかなか面白さが分からないわけです。そういったことが分かりづらいからこそ、東京の人はあまり水辺に対して愛着をもっていないのかもしれません。地方には、川の流れが上流までイメージできるような風景があると思うんです。
向井:先ほども少しお話ししましたが、わたしが参加している〈学びの場をつくる学校〉というウェビナー主催の瀬戸昌宣さんは東京出身なのですが、今は福岡県福津市で活動されているんです。宮地岳という山の管理(宮地嶽鎮守の杜再生事業)を始められたらしいのですが、必要に応じて「木を切る」とおっしゃっていたんですね。なぜかというと、木が多すぎて山の上から海が見えないですし、下からも山の上にあるお宮が見えないから。木をそのまま放置していると、どんどん鬱蒼として暗くなり、先が見通せなくなってしまうんです。もちろん、植林も同時に進められるのですが、山の中が双方向から見えるということは、山からも麓からも見守りができる・見守られているということなのだそうです。ちゃんと通してあげることが大切なんですね。以前訪ねた比叡山の麓、坂本の町も、山から町中に人工的に水路を通していました。お山からは琵琶湖が望め、麓からはお山のまなざしを感じることができる。そして常に山からの水が流れている音が聴こえ、お山と琵琶湖がつながっているという体感が日常の中にありました。
齋藤:見通しをつくってあげるというのは結構重要なことなのでしょう。東長寺から川に流れる水の、水源や経路に対して、見通しが感じられるような映像をつくっていくのもいいかもしれないですね。
向井:面白いですね。齋藤さんは水辺を歩いて撮影をしていますが、やっぱり土を撮っているんですね。水や樹皮を撮っていたとしても、この人は土壌を撮っているんだよなと感じます。
齋藤:そうですね。水というより、水がつくり出した景色である地形を撮っています。水を介在させることはしますが、水を撮っているわけではないのでしょう。
向井:今回の企画の仮タイトルを「きわにもぐる、息をはく」にしていますが、これにするかどうかも決めていきたいですね。もしこれを使うとしても、齋藤さん的なタイトルも含めたほうがいいと思っています。実は「息をはく」という部分は、もともと「きわにはく」としていました。ただ、周りの人たちに「意味が分からない」と言われた結果、「きわにもぐる、息をはく」としたんです。
齋藤:確かに「きわにはく」では分からない(笑)。でも、なんとなく「きわにはく」のほうがしっくりくるんですよね。
向井:そうなんです。「はく」という言葉は、展示の際の音のことも考えて入れています。呼吸なのか、地殻の変動の息なのか、そういったものをどうやって録っていきましょうか。
齋藤:音はそんなに注力していなかったですね。
向井:まだ答えが出なくていいですが、展示までに考えていきましょう。
齋藤:僕は、あまり派手ではない音をイメージしています。電子的でノイジーな感じでもないし、メロディアスなものでもない。何の音なのかが分かるような音でもないと思っています。撮影するときの音は一緒に撮れているので、その辺りをうまく使いながらサウンドデザインについても考えていきたいですね。
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