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大熊にいない、祖母と家族の話

祖母が、看取りの段階に入ったという母からの連絡を、午後10時過ぎにベッドの中で受けて、それからずっと体も心も目まぐるしく動き、さすがに疲れたのだろう。急きょ帰った長崎でも、そこから戻った大熊でもずっと異様に眠くて、だるくて、この週末好きなだけ寝てようやく目が覚めた。

祖母は95歳。コロナ禍で施設に入り、そこからはほぼ会えない日々。熱が出て、菌血症というやつらしく、施設の介護方針として「看取り」に入った。父母も含め家族一同、秒読み態勢に入り、私と下の弟は慌てて顔見に帰ったわけだが、施設で横たわる祖母は言葉は発しないものの血色はよく、「…どうもすぐ葬式はなさそうだ」となんとなく一同確認して今に至る。当の祖母は、何を考えているのか、分からない。

祖母の年齢的にもここ数年の体調的にも分かっていたつもりの、祖母がいなくなる日を、分かっていなかったなあと思った。というか、大切な人が死ぬとき、私はいつもそうかもしれない。
母からの連絡を受けて、落ち着いているつもりで出勤した翌朝、職場に着いた瞬間からうまく心も頭も起動せず、午前8時半の勤務開始とともに早退した。家で10分、号泣したら地に足が着いて、こりゃダメだと帰省の予定を立てて職場に戻った。家族の状況を最優先にしていいと、即座に返してくれた上司が、ほんとにありがたかった。

私は、おそらく親族全員が認める、祖母に「最も愛された孫」である。2人の弟が生まれるときに祖父母のところに預けられたのが大きいのだろう。私はすっかり祖母になつき、両親が迎えに来たときには、帰りの港(うちは離島である)で、父母を送ったつもりで祖父の車にさっさと乗りこみ、当たり前のように祖父母に帰宅を促して母を泣かせたらしい。そういうことを母の前でも嬉しそうに語る祖母、たとえば成人式で買ってくれた着物その他の金額の大きさを私に愛情の大きさとして伝えるような、私も大人になれば分かる、性格に難ありの祖母を、その難を含めて私は愛している。

母の連絡の翌々日に、九州へ飛び、福岡の弟のところで一泊して、長崎へ帰った。社会人になった後は、両親とも年に1、2回、まして弟たちとは年に1回会うか、会わないかの関係だ。でも、弟の妻である義妹や姪っ子も含めて、会うだけで安心した。
大熊では泣くしかなかったのに、小学5年と2年の姪っ子たちと、祖母と、10年前に亡くなった祖父と、その前に亡くなった母方の祖父母のことを語って、笑える。長崎に帰って両親と、今は海外赴任中の弟家族とは電話で現状や葬式について話して、認識を共有する。

ばあちゃんのことを、大事だと思ってる人といるのが楽だ。死ぬことは、しょうがない。そこをどうこうするのではなく、近く来る死を、ここにいない人も含めてみんなで受け止める準備をする。
暇な時間、やっぱり長崎にいても眠くて、唯一頭と体がすっきりするのは海に漬かってる時間だった。

冒頭の階段に服を服を脱ぎ捨てて、海に入る。

ああ、大熊から長崎は少し遠いな、と分かっていたことを、少し思った。

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