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きうぴいレシピメモ ②月田秀子

本日6月16日は、ファド歌手月田秀子さん(1951-2017)の命日である。ファドというのはポルトガルの大衆歌謡で、月田さんは日本におけるファド歌手のパイオニア的存在だ。

私は2000年に彼女に出会い、生涯の友としての付き合いが始まった。また、公式サイトの管理人になったりアルバムの選曲に携わったり、ピンチヒッターでピアノ伴奏したり、彼女の音楽的な面でのご意見番になっていた。月田さんはどんな人だったかというと、ズバリ「類稀なる美人で明るくて、気難しいけどとにかくモテる人」だった。そして、歌手としては、とんでもない引力の持ち主だった。歌手としての月田秀子の魅力は最後にご紹介する動画を観ていただければ説明は要らないとおもうので、どんな人物だったかを以下に綴ることとする。

男女問わず熱狂的なファンが多かった。コンサートの時に街に貼られるポスターは随分盗まれたというし、「また来たの?もう来なくていいわよ」と歌姫に冷たくあしわれながら毎月いそいそと定期ライブに足を運んでいた男性ファンがどれだけいたことか。作家の五木寛之氏も、日本のファド歌手としての月田秀子を大変買っていて、彼女の名前はエッセイに登場した。ジョイント音楽イベントなども一時期盛んに開催され、月田秀子は全国的には知る人ぞ知る存在であった。

月田さんは、亡くなるわずか2年前に北海道に移住したのだが、毎日通っていた市民プールで「12時半のマドンナ」と呼ばれていた。毎日12時半にプールにやって来たからだ。彼女が泳いでいると、プールサイドにおじいさんたちの足がずらっと動かず並んでいたという。彼女が泳ぐ姿に皆さん釘付けだったのだろう。長年プール通いをしていた月田さんは、千葉に住んでいた頃ロッカールームで「失礼だけどあなたその胸自前?」と聞かれたほどのスタイルの良さだったので、おじいさんたちの様子は容易に想像できる。また、自分が北海道を留守にする時は「あたし来週来ないから」とプール仲間のおじいさんたちに伝えていた。「だって、来て私がいなかったらかわいそうでしょう」と言っていた。歌手だとは明かしていなかったようだが、モテる女は言うことが違う。

大阪で役者として数年活躍した後、シャンソニエ『ベコー』のオーディションに合格し、歌手活動をスタート。その後、ポルトガルのファドの女王と呼ばれたアマリア・ロドリゲスの歌声に衝撃を受け、日本では加藤登紀子訳詞で知られる『難船』など、アマリアのレパートリーを歌うようになった。35歳の時に1年間ポルトガルのリスボンに語学留学。滞在中に出会った現地の人々からの縁でアマリア・ロドリゲスとも対面を果たし、彼女自身予想もしていなかったそうだが『日本人のファド歌手』として注目を浴びて、リスボン・コロッセオ劇場で開催されたファドの祭典で2000人の聴衆を前に歌った。そして帰国後はファド一筋の人生を歩み、2010年にはその活動功績によりポルトガル大統領よりメリト勲章を受勲。肺がんが発覚してから1年2ヶ月でこの世を去った。享年66歳。

ファドという音楽は、明るいものもあるが基本的には物悲しい。しかし、哀しみの中に強さがある。彼女のファドのレパートリーは、アマリア・ロドリゲスのものがほとんどだったので、メロディも美しいものが多かった。日本語で歌うことを頑として拒否していた月田秀子だが、日本語での歌唱も見事だった。文才も豊かだった彼女の訳詞は素晴らしい。一つご紹介しよう。歌詞の下に同曲の動画も貼っておきます。(音声のみ)

メウ・アモール 愛する人へ MEU AMOR  訳詞 月田秀子

ひとり砂浜にたたずみ、くちずさむ                  いつかあなたが歌ってたこの歌を                    はるかな旅路に沈む夕日に                      Meu Amor もう一度歌ってよ この歌を               Meu Amor もう一度

塵の中にも花は咲き 陽は微笑む                        あなたのこぶしに                          あなたの震える肩に                         あなたの涙に あなたのぬくもりに                      Meu Amor 歌おう この愛 この命                  Meu Amor 忘れない

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