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躁鬱(双極性障害)の人向け 喜びを感じて生活するまでに何があったか
先日、ましゃこさんが記事を紹介してくださいました。ありがとうございます!
ましゃこさんの記事を読んでいて、「変えられるものと変えられないものを見分ける」みたいな事が頭に浮かびました。機会があったら書いてみたいと思います。
”道端の花を眺める”、喜びにとても共感します。今季節的にとてもたくさんの花が咲いていて、本当に美しいですね。
アヤメやハナショウブを見ては、「江戸時代の人もこれを眺めていたのかも?」と思いを馳せて楽しんでます。
今日は、喜びを感じて生活するようになる、よりも手前にどのような分岐点があったかを書きたいと思います。
双極性障害を発症した後、猛烈に悔しい感情がありました。自分の将来の事、友人関係の事、頭の中はグチャグチャでした。
ある時、こう考えてみました。「病気で損をしたことは事実だ」その損を挽回しようとするのか?損を切るか?
株は詳しくないですが、“損切り”というのがあって、損を拡大させないように、その時点で損失を確定させるそうです。そして残っている資金を守る目的があるようなのです。
このイメージを自分に当てはめて考えると、発症し、体力が以前より落ちるなど、体が資本とするならば、資本が少なくなったと感じます。
以前、自分が追い求めていたものに手をつければ、ジワリジワリと損が拡大し、いつか各方面に影響が出るだろうと思いました。
例えば、発症前、私は心理学を教えたいと思っていました。でもその方面に進んだら、体、夫婦関係、親子関係、友人関係などバランスをとりきれなくなる日が来ると考え、やらないと決めました。
もっとも“人に教えている場合ではない”のでしょうが・・
前にできていた事が出来なくなるのは損失ですが、損失を小さくする方法をとるのも私にとっては大事でした。
何かを諦めるのは、時に損失を小さくする有効な手段になり得ると思います。
健康な時の自分の続きではなく、発症後、新しい人生を生き始めるのも良いのではないでしょうか。
前にやっていたことを手放したら、自分には何もない、なんてことはなく、五感が働くよう、外に出て景色を眺めていると、ふと自分の心が望んでいる事がわかる時があります。
上手くやろうとか、体裁を気にするほど、自分の中から新しい芽みたいなものは出てこず、実態に合わせた自己イメージを持っている方が、楽な上に、嬉しい事が増えていくように感じます。
“ちっぽけでなんでもない自分”というのが、私のイメージで、これは本当のこと。卑下しているわけではなく、日々、自分に向けられる暖かさに喜びを感じています。
自然に対しても、何にもしてないのに、こんな美しいもの見せてくれてありがたい、と思っています。行き過ぎて躁にふれてはよくないので、控えめにですが。
自分が納得してそれをしているか?それとも、仕方なくそうしているか?で外側の世界の捉え方が変わって来ると思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
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