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高根への旅支度

―中尾
来週、私の原点ともいえる場所に、ちんじゅの森の新理事長と、学生を連れて訪れますので、今日はその旅支度として、どんな場所かというお話をさせていただこうと思います。
新潟県村上市の高根という集落です。
私が初めて澁澤さんに連れて行っていただいたのは、もう20年前になりますね。
 
―澁澤
そうですね。高根に行く前に奥三面の話があって、奥三面の人に会いに行っていた時、あの辺りは山の中なので宿もないので拠点がなくて、知り合いの伝手を辿って、その当時朝日村の役場にいらっしゃった遠山実さんに、ご自身の山小屋ですとかご自宅に泊めていただいて、それから稔さんのご自宅のある高根に通うようになりました。
 
―中尾
そうでしたね。このキツネラジオの最初の頃に、お米はどこでどう作って、どんなふうに自分のところに運ばれてくるかということや、一年間に自分が食べるお米の量は、このくらいの広さの田んぼで作られているんだということを教えていただいたのが、その遠山さんでした。それから、食べるということと自分の暮らしのすべてがつながった場所です。
あれから20年ですね。
 
―澁澤
そうですねえ。あの時、カモシカの料理をふるまってくださった小池善茂(ヨシシゲ)さんも、つい先日お亡くなりになりました。最後のマタギの猟師さんでしたね。
 
―中尾
奥三面にお住まいだった善茂さんですよね。
 
―澁澤
中尾さんが、その集落の入り口から、「血の匂いがする」って大騒ぎされていましたね。
 
―中尾
いや、大騒ぎはしていません。静かに言いました。この血のにおいのするお家に行くのでしょうか…といいました。
 
―澁澤
その通りでしたね(笑)。
 
―中尾
はい、凄かったです。
 
―澁澤
ニホンカモシカの料理を食べるなんてもう二度とないかもしれませんね。
 
―中尾
もうないでしょうね。だってカモシカは天然記念物なんですよね。本当は食べちゃいけなかったんですよね。
 
―澁澤
はい。長野県の博物館が、標本がどうしても必要だということで、国の許可を得て、その捌き方を善茂さんが講習をされて、そのあまった肉をいただいたのを、わざわざ私たちにふるまってくださったのです。
 
―中尾
そうだったのですね。
 
―澁澤
そのようなところにお邪魔しているときの拠点とさせていただいたのが高根地区。
奥三面というのは、三面川をさかのぼっていくと途中から高根川という支流に分かれて、本流のドンツキが、奥三面集落がかつてあったところで、支流の方のドンツキが高根という集落です。林道を進んで、尾根一つ越えると高根集落になるのですが、食べている素材はほとんど同じなのに、文化も違うし、味付けも、料理も違って、こんなに近くなのに、尾根一つ越えるだけでこんなに違うんだなあと思いました。
最初は奥三面に興味がありましたので、高根はお酒を飲ませてもらって泊めていただく場所だったのですが、ある日、ふと気が付いて高根を歩いてみると、ものすごい広さの棚田があったので、「どれくらいあるの?」って聞いてみたら、100町歩、100haあるっていうのです。
100haの棚田ってね、田んぼが100haあるってことは畔の部分が100ha、あるいはそれ以上あるってことなんですよ。その棚田の畔というのは除草剤をかけられませんから、人の手で刈らなければいけない。100haもの田んぼの畔をいったいこの人たちの集落ではどうやって手入れしているのだろうというのが、高根に関心を持ったきっかけでしたね。
それで、森はどれくらいあるのかと聞いたら、その周辺の森・約1万㌶が、その地区の共有財産だと言っていました。凄い山奥だと思って登ってみたら、山の上からは海が見えて、こんなに海が近いのかと驚きましたね。
中尾さんも親しくされている鈴木さんご夫妻は、奥さんが漁港からお嫁に来られて、結婚して30年くらいたつけど、まだ旦那さんの言葉の3分の1くらいわからないって(笑)
 
―中尾
そうなんですよ。ちんじゅの森が鈴木さんにはとてもお世話になっているのですけど、会話が全然かみ合ってなかったことがありました(笑)。遠山さんの言葉もわからなかったです。だけど、息子さん、小さい子供さんが通訳になって、おじいちゃん、おばあちゃんともつないでくれましたね。
 
―澁澤
そのくらい、山の中というのは隠里ではないですけれど、集落の中で全部そろっていて、外の交流はそんなにない暮らしが続いてきたのでしょうね。
さっきのようにクローズで尚且つお米を作って、限りなく自給自足に近い暮らしをされている人たちの村の結束というのは、びっくりするほどですね。
公民館があるのですが、それは高根集落の人たちがみんなでお金を出し合って、自分たちで運営しているんのですよ。人を雇って。
 
―中尾
それってすごいことですね。
 
―澁澤
ですから区役場といっていて、役場なんですよ。
高根地区が一つの独立国家のように経営している。
だからいつもその区役場と呼ばれている公民館ではいくつもの寄合が開かれていますね。PTAであったり、ソフトボールであったり、村づくりであったり…
それらを、皆さん掛け持ちをされながら、毎晩のように会合があって、この人たちのプライベートな時間はどれくらいあるのだろうと思いましたね。
 
―中尾
そうですよね。その方たちほとんど同じ方が毎晩顔を合わせる感じでしょ?そんなにたくさんの人がいるわけではないですものね。
 
―澁澤
縄文の暮らしですね。
 
―中尾
そうですね。うちのちんじゅの森の民話チームが初めて高根で民話語りをした時に、おっちゃんたちに「あんたたち面白いけど、薪割りはそんなじゃねえ」って(笑)。一回うちに来いって言われて、柴刈りとか、薪割りとか、そのしぐさが悪すぎるって言って、合宿に行きました。
 
―澁澤
だけど最初に連れて行った学生たちは、炭焼きって、炭って山に落ちてるものって言っていましたから、そのくらい今の学生さんたちはテレビの中の暮らしのようにしか思えないのかもね。
 
―中尾
それももう20年前ですからね。今はもっとわからないかもしれませんね。
だけど、来週一緒に行く現役の大学生は、二十歳になったばかりですが興味津々なんです。それはうれしいですよね。ぜひ、そういう人たちにどんどん行っていただいて、いろんなことを吸収してくれると嬉しいな。
 
―澁澤
いいですね。
高根という集落は私の知る限りでは、山の中にあって、ある意味では外界と隔絶されているのですが、過疎という言葉がない集落なのです。3世代4世代同居というのが当たり前のようで、先ほどの公民館の話ではないですが、絶えず村の人同士が会っていて、集落全体で一つの家族のようで、昔の日本はそうだったんだろうなと思いますけど、それが今でも続いている特別な地域ですね。
過疎というのは、自分だけで生きていく、あるいは自分の家族だけで生きていくという風に思い始めてから地域の過疎が始まっているように思います。それは核家族という言葉ができてからかもしれませんが、そうなってから地域の過疎って始まっているような気がします。
よく経済的に山は貧しいから過疎になったとか、色々な施策、行政サービスが行き届かないから過疎になったとほとんどの行政マンは信じていますし、私も最初の頃はそう思っていましたけど、高根でつくづくわかったことは、人間の心が離れていくと過疎になるのじゃないかな。そっちが先だと思います。高根が過疎にならない大きな理由はそれくらい人間関係が密で、一つの家族のように生きてきたために、過疎になっていないのだなということが良く分かりました。
 
―中尾
前に澁澤さんがおっしゃっていた、わずらわしさとありがたさは同じで、両方わかったうえでさらに一緒に暮らせるということですよね。
 
―澁澤
都会の人から見たら、気が遠くなるほどの煩わしさだと思うのですよ。
プライバシーはほとんどなくて、人の心の中に当たり前のようにニコニコしながら土足で入ってくるという人間関係。
そこに聞き書きの一期生が夫婦で入っているので、都会からそういうところにいって暮らすということがどんなことなのかということを、来週は興味深く聞きながらお伝えできればと思います。
 
―中尾
はい。聞きたいことがいっぱいあるので、本当に楽しみです。

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