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民俗学という視点

―中尾
今日は澁澤敬三さんと宮本常一さんの話をじっくり伺いたいなあと思います。
 
―澁澤
当然会っているのは敬三だけなのですが、敬三は私の子供の頃から見たら、話し相手でもないですし、澁澤同族会みたいなのがあってそれを束ねている、とてもえらい人だったのです。だけど、その周辺にいると、澁澤家に来たお嫁さんたちがいて、それぞれ三菱とか、三井とか、錚々たる財閥ですとかあるいは学者筋の方が多いのですが、皆さん、敬三さんに対して大ブーイングでした。
 
―中尾
え?ブーイングですか?
 
―澁澤
敬三さんが民俗学などというつまらぬ自分の趣味に財産を全部つぎ込んだり、時間をつぎ込んだりして、私たちは澁澤家に来たら楽をして良い思いができると思ってお嫁に来たのに、何なんだと。その不満は多くの人から聞きましたし、とにかくそんな状況で、私が育った環境の中で民俗学を語る人なんて誰もいませんでした。語られるのは栄一で、それはやはり資本主義の成功者ということでの評価なんです。
 
―中尾
だけど、その栄一さんが認めて後を継がれた敬三さんは大蔵大臣にもなられて、皆さん裕福な生活をされたのではないかと思いますけど…
 
―澁澤
だけど、自分のポケットマネーはみんなパトロネージュにお金を使っていましたから。
 
―中尾
凄いことですよね。それによって、貴重な日本の文化を残されましたよね。
 
―澁澤
そうですね。最後の仕事は国立民俗博物館です。
 
―中尾
私たちは民俗学の方にとても興味があるのですが…
 
―澁澤
澁澤家は学者もたくさんいますので、民俗学は良いだろうと思っていたら、彼らは学問として民俗学を認めていませんでしたね。要するに古臭いものの趣味で、骨董品を集めている困ったおじさんというイメージでしょうね。
 
―中尾
民族学と民俗学の違いはどう見ればよいのでしょうか?
 
―澁澤
「民族学」というのは種族の族で、比較民族学というのはこちらですが、「民俗学」の方は、人が生きてきた風習だとか、生き方、くらしを集めて、それを体系づけて記録しようというものです。
 
―中尾伊早子
それは世界中にあるものですか?
 
―澁澤
世界中にありますね。英語のフォークロアに当たります。
 
―中尾伊早子
日本だけではないですね。その「民俗学」の方を宮本常一さんは専門にされていたのですね。
 
―澁澤
宮本常一さんご本人にはお会いしていませんが、ご長男の宮本千春さんとマングローブの植林をご一緒させていただいたり、そのマングローブの植林をやっている人たちはみんな宮本常一さんの教え子たちでした。日本の中山間地の歩き方を教えてくれた姫田忠義さんは民族文化映像研究所の所長さんで、宮本常一さんの歩いた日本を映像として残そうとされていて、まさに常一さんと一緒に歩かれた方でしたし、のちに聞き書きの時にお世話になった神崎宣武先生ですとか、敬三さんや宮本常一さんと縁のある方がたくさんいらっしゃいました。
忘れられないのは、私が何の紹介もなく、網野善彦先生に会うと良いよとおっしゃっていただいて、当時は日本常民文化研究所が神奈川大学にあって、晩年の網野先生にお会いしたら、お会いしただけで「敬三さんが生きていたら、どんなに喜んだだろうに」といって、網野先生の涙が止まらないのです。
神近義邦さんと一緒に会社経営をやってきましたが、会社経営というのは今を横切りにしていくというものだと思います。今の社会の中の最も価値のあるものを形にしてビジネスにしていくということが経済なんですが、民俗学は今を輪切りにするのではなくて、重層的に積み上げるような、どうやって人間が生きてきたかという時代の見方になるのです。
例えば、関ケ原の合戦も、私たちは歴史の教科書の中で、徳川家康と石田三成が戦って、東軍の徳川家康が勝って、それから250年続く徳川幕府ができた。時代の節目の戦いだったと学校では習います。事実、その通りでしょうけれども、あの関ケ原の合戦が行われた旧暦9月15日という日は今の新暦でいうと、9月の下旬か10月のあたまくらいで、その当時の農業の仕方を見ると、ちょうどお米の刈り取りの時期にあたります。新幹線で通られたり、歩かれてみるとよくわかると思いますが、東から行くと濃尾平野というとても肥えた土壌の平野が広がっているまさに穀倉地帯です。そして、関ケ原はあっという間に過ぎてしまいます。小さな山の中の盆地です。すぐに今度は伊吹山の麓に広がる近江平野、東近江の国、まさに近江商人が生まれた国ですが、そこも琵琶湖のほとりの平原地帯に出てきます。そうすると、東近江も濃尾平野もその時は稲刈りの真っ最中です。その時に歴史学では東軍と西軍の関ケ原の戦いだけが記録されるのですが、民俗学ですと、その時社会を作っていたのは、去年も同じように、また来年も同じように、稲を刈って、それを干して脱穀して、お米にかえていく、それで生きてきた人々の暮らしの方に重点を置きます。
なんで、関ケ原という場所で天下分け目の合戦が行われたかというと、人々の暮らしの中から落ちこぼれたり、あるいはとんがって有名になりたいとか、あるいは手柄が欲しいと思った連中が、山の中の関ケ原という運動場で大運動会をやりましたという風に見える。それほど、現実の見方が民俗学と歴史学では違うんだということを知って、私は学問としての民俗学ではなくて、私は環境NPO等を経験したので、これから人間が生きていくとき、どういう方向に向かうのか、何のために働くのか、何をもって人生の意義としていくのか、そしてその社会はどういう風につくって行けば、いろんなことを自分たち一人ひとりが考える新しい社会をつくることができるのかということを必死に模索しているときでしたから、人々はどう生きてきたかという積み重ねにとても興味があったし、そこで読んでいく宮本さんの目から見た社会だとか、会った人だとか、そのお話というのは本当に目からうろこで、この視点しか未来は語れないと思うくらい衝撃を受けました。
 
―中尾
私は30年くらい前に初めて澁澤さんの講演を聴いたのですが、その時もこのお話をされていて、教科書は政治の歴史なんだなと思いました。その裏側にある、実際に日本で食べ物をつくったり支えてきた普通の暮らしをして生きてきた一般の人々の暮らしは、一切現れてこないんだなと気づきました。歴史というのは、えらい人の歴史だということはわかっていたけど、そこに全く疑問を持っていませんでした。そう気づいた瞬間に世の中の見方が変わりました。一般の人はどう思ったのか、どう動いたのかと考えるようになってから、全然見えるものが違ってきました。それから私は何をすればよいのだろうと考えるようになって、私もその影響をそのまま受けました。
 
―澁澤
そうですね。「えらい」という価値がずいぶん変わりましたよね。それまでは社長さんであったり、社会の成功者だとか、そういう地位があるといわれている人たちが偉い人だと子供の頃から思わされてきたし、教えられてきたけど、それは違うんだなと。むしろコツコツと生きてきた人たち、それからその人たちが生きていけるように村をまとめてきた人たち、そういうような人たちが本当に偉い人達なんだということに気づかされましたね。
 
―中尾
今日は民俗学の入り口にもまだ行かないのですが、なぜ宮本常一さんの民俗学にひかれるのか、これを知って、自分の新しい生き方が始まったということをお伝え出来たかなと思います。
※写真は別冊太陽より(文春提供)

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