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本業が忙しくなってきました!


 というわけで、余計な文章も書きたくなってきました。いくつか、書いてみたいと思って、下書きは溜まってきましたけど、今日はこれ!”分断と融合”って感じの文章を書いてみます。(しかし、MacBookの予測変換、いらんわー!めんどくさいはーー!いらんこと多いわーーー!www)

 ”分断と融合”なんてことについて、ぼんやりとこのところ考えていたところ、昨日は、何だか、いろいろ番組がかぶり気味に続いて、

シブヤノオト
B面ベイビー
タクタク(京都の有名なライブハウス)のやつ(BSフジのやつ、番組名忘れた)

と、かぶりながら、だいたい見ました。その中で少し、思っていたことを書いて見ます。

 日本は、70年代前半くらいまでは、オモテとアンダーグラウンドが分断されていて、フォークシンガーやロックバンドは、TV、例えば、久米−黒柳の《ザ・ベストテン》なんかにも出演拒否していましたよね。かぐや姫や矢沢永吉さんなんかそうだったようです。昔話。

 バブルが結果的に状況を変えていきます。

YMOが果たした役割は、結果的にということなんですが、大きくて、その分断を埋めていく象徴になっていきます。もっとも、YMO自身は、早期に散開してしまうわけですが、その軌跡に多くの人が反応し、TVやイベントなんかもオモテとアンダーグラウンドが混ざっていきます。

余裕のある時代だったんですね。やってみるまでありがちな、「ホントに大丈夫なのか?」の声をかき消す勢いがありました。象徴的なのは、

い・け・な・い・ルージュマジック

の坂本龍一さんとキヨシローさん、

そのPVの最後は、お二人のキョーレツなキスシーンですが、プロデューサーには、‘’分断と融和‘’ の認識がありましたよね。これは明らかに。時代の余裕と変革していくさなかにあった自分たちを外から、もう一人のご自分が見ておられたというのを強く、感じます。

 結果、例えば、三宅裕司さんみたいな人が、”イカ天”を立ち上げ、その分断の融合にいち早く、一つの道筋をつけられます。この番組が、TBSであったのも、ある意味、ちょっと象徴的です。もちろん、三宅裕司さんのような方なので、当然、この程度のことは、コンテンポラリーにあって、意識的であったはずです。同時代的にあって、意識的である方って、一頭地を抜くものです。これ以上、言葉を要しないですね。

 結局お金なの?と言う人には、注意しておきたい訳ですが、確かに、一定の経済的余裕が無ければ、このような文化的進歩と分断の融合は、進まないに決まっていますが、それだけでは、もちろん、不十分に決まっています。経済的余裕が、それぞれの個々の文化的な深化を揺籃していた時期があって、その後、様々な外的要因が、ラッキーに重なり合い、萌芽を潰さず、大木にまで育てる環境が熟成されていたのだと考えられます。こういうことは、人為的には難しいことです。本当にラッキなーなことが重なっていたのでしょう。同時代的に意識的にキチンと何かを本当に生み出せた方やその素地を活かせる環境を整えられた方は、”天才”というべきです。

 まあ、そういうわけで、文化的な側面に限って言えば、パブル期も悪いことばかりでは無かったですよね。他には、例えば自動車。トヨタは、バブル期を経て、国際標準のフラッグシップセダンの、LEXUS LS 400 を生み出します。

コレは、Normal意識とNoble意識にうるさいアングロサクソン系の欧米貴族を唸らせ、メルセデスを北米大陸の東海岸の隅にまで、追い詰めました。バブル期の浮いた経済的余裕が無ければ、そのようなことは不可能だったと思います。しかし、トヨタが、ただの小器用な2流の製造メーカーが、バブルに浮いたあぶく銭をたくさん持ったというだけであっても、そのことは成し遂げられなかったと思います。そこには、昭和の戦後世代にあった、夢と実行力がありましたよね。大きな戦争による分断を、止揚して、より高次の文化的達成を意識的に志向する強い精神的な、文化的な連綿と続く営みの成果でしょう。トヨタは一つの象徴であったわけですが、様々な分野で、戦後の焼け野原で見た夢をある形で実現されて行く方が出てきます。家電、コンピューター、などや、大衆文化芸術面でも、ジャニー喜多川さんとか、それに続く人たちです。

 昨今は分断の時代と言われますが、この混乱の後には芳醇な融合期が来ると信じたいものです。それもなるべく犠牲者なしで。分断は、様々な正義のテーゼを立ち上がらせますが、そこでは、当然ながら、どんどん先鋭化していく対立が浮き上がっていきます。これはある意味、仕方ないです。問題の本質が先鋭化し、それがより本質的な問題を浮き上がらせないと、そこにある種の飛躍が生まれ得ないからです。そのような飛躍は、ある種の”脱構築”で、テーゼと反テーゼの対立を同じ次元で解決するのではなく、それを含むより大きな環境ごと別次元に飛ばしてしまうことで、問題の本質自体を変質させてしまいます。

 今では、ライブハウスやクラブ文化と表の芸能文化には、初期のナイーブな対立的分断はなくなり、それらは昇華され、止揚されてしまって、文化そのものとして、別次元にあるように見えますが、そういうことです。もちろん、質的な違いとか、個人の好みといったレベルでの違いは内苞されているママなんですけど、それらが、文化進化のドライビングフォースとしてはもう、機能していないと思います。それは、もう、一昔前に乗り越えられ、新たな段階を迎えてしまっているものなのです。この混乱期の後の、揺籃期、そして、熟成期を迎えた時、どのような地平が広がっているか、とても楽しみではあります。それを支えるインフラストラクチャーの進歩は、着々と進んでおり、後から振り返って見た時、あれがこれの萌芽であったよね!ってことになるハズのことどもが、すでに、いくつもそのツルッツルの頭の先っちょを見せているはずです。

 大急ぎで付け加えておきたいことがあるのですが、対立の先鋭化は、時に、具体的な暴力装置の登場をやむを得なく許すものです。バスチーユの監獄は武力で責められ解放されるべきでした。象徴としても、このような現象が必要なことが多いです。様々な事態が、るつぼで混ぜ合わされ、要らない要素は弾き飛ばされ、その後の静寂期に、”オリ”のように沈殿する中に、次元を超えた新たなステージが用意されます。しかしながら、その中で、命を落としたり、重大な事態に個人的にハマってしまう人は少なからず、出ます。それも、ほとんど全てのそのような人たちは、無名で、その時も表に出てきませんし、さらに事態が歴史になっても、記憶されもしません。そのような「尊い犠牲」は、なるべく少なく、次のステージを迎えて欲しいものです。

 そもそも、「進化」とはそのような、一昔前に流行った言い方では、弁証法的に進むものです。福山雅治さんが、出演されているNHKの「最後の楽園」なんかにもよく”進化の視点”が取り入れられていますが、生き物の集団現象を見る際の一つの切り口として、「進化」は興味深い視点です。進化という概念そのものが、ものすごく誤解されてきている、もしくは、本質的な部分に、誤解を含みやすい性質がある概念なのですが、そのことについては、すでに、何回か書いているので、今日はそこは問題にしませんね。(弱肉強食、適者生存の名のものに、優秀な種族だけが生き残ればいいし、それが自然の進化の原理だ!というのはあまりにもナイーブで、愚劣な勘違いで、少なくとも現代の進化科学の基本的な考え方とは、正反対であるとだけ、もう一度、言っておきます。生物進化の基本は、純粋理論的にも生物多様性にあるのです。)

 霊長類を含む高度に進化した哺乳類の群れは、もともと分断された群れ同士なので、たまに出逢うと、当然、争いになります。群れの端っこの方にいるやつはオスなら、まず、やられるし、メスは敵に引っ張りこまれて、奴隷のようになったりします。

 しかし、社会的な状況事態が進化して行くに連れて、そのようなプリミティブで、野生的な闘争の歴史に鑑み、”分断と融合”の進化も、よりソフィスティケートされた形で進んで欲しいと思うものです。

 






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