見出し画像

ピースのかけら にじゅうはち

今日の東京はポカポカと暖かく、街ゆく人の足取りも軽やかだった。天気がよいとアレしようかコレしようかと色々湧いてくるから不思議。寒さが続く中のほっとひと息タイムで何だかご褒美もらった気分。
お陽さまいっぱい浴びた洗濯物を取り込むと、部屋がお陽さまの香りになりこれまたご機嫌さん。冬のお陽さまの感覚。夏には感じられないほんわりした穏やかさ。好きだなぁ。


このところ家飯にはまっているようで、作って食べるのを楽しんでる。
前回のナントカ宣言の時は、周りの普段行けないお店がテイクアウトを始めてくれたのが嬉しくてやたらお持ち帰りに励んでいた。気になるお店はほぼ制覇したのと、少し偏り過ぎたのもあってかその後体調崩したというのもあり、今回は全く食指が動かない。
先日この店の試してなかったなと買い、好みの味だし美味しいのだけど、何だかやっぱり自分で作った方が落ち着くなと感じたので多分いまはそういうモードなんでしょ。

作るのが、楽しい。
食材が変化していくのが。組み合わせで別物に変身するのが。茹でたり焼いたり方法で違う顔を見せるのが。
空腹を満たすための作業だとシンドク感じる事もあるけど、変化そのものが楽しいとある種遊びのようなもので。「これやったらどうなるんだろう?」と毎回実験してるみたいになる。
相変わらず「発酵」ものは好きで、肉や魚が麹につけとくだけで別物へ変わったり、味噌漬けにしとくだけで自分は天才なんじゃないかと思わせてくれるくらい美味しくなってたり。
作ると言っても手の込んだものはやらないから、素材そのもののチカラや変化が楽しいんだろうきっと。

以前と違うのは、料理してる時も「感覚」を使うようになった。ブロッコリーを蒸し茹でするにしても「香り」と「音」の変化で自分好みの茹で上がりタイミングを計る。同じ野菜でもその時そのとき違うし、その日の自分の好みも違うから、その時の自分が一番喜ぶ出来上がりになるよう感覚を澄ましてやっていると、食材の方でちゃんと「いまっ!」と教えてくれる。いやモチロン喋らないけど、よきタイミングが何となくわかる。
塩ひとつまみ入れるのも、味噌汁の味噌を入れるのも同じ。「この料理はこれ位だから」とか「毎回これくらい」とかではなく、その日その時の感覚に敢えて耳を傾ける。
そうすると、その時の自分が一番喜ぶカタチが現れる。こういった変化の違いに気が付いてから、やたら面白くて仕方ない。

いままでも「感覚」に目を向けるようにはしてきたけど、外から訪れたアプローチに対してその時どう感じたか、だった。
ここ最近それを自分側からの視点に変え日常レベルに落としこんで遊んでる。先程の料理のように。「その時の自分が一番喜ぶのは何か?」を基準にして家のなかでも過ごしている。



画像4



いままで「自分が好きなこと、喜ぶこと」なんて考えないでずっと生活してきてると、自分のそんな感覚すら直ぐにはわからなくなる。
「あそこ行きたい」「あれ欲しい」は「自分が好きなこと、心地よいこと」とイコールではないから、その勘違い取っ払って
「いま、どうしたいか」「どっちが楽しいか」を常に自分に問いかけ感じる。
初めはメンドクサイけど慣れてくると「自分が喜んで」そうしたものとそうでないものの違いのようなものが何となく感じるようになってくる。"自分の好き"が見えてくる。
洞窟にいる動物は視力発達弱いように、感覚は使わないと鈍ってくる。使えば使うほど、開いてくるし澄んでくる。せっかく備わっている感覚、使わないとモッタイナイ。



画像2



冬至過ぎ辺りから少しずつ身体の感覚も感じかたが変わってきている。
どこかで書いた「ハート辺りで聴こえる」も依然継続中なので一過性のものではないらしい。身体全体の感覚としては、振動というかそんなものがより繊細に細やかになってきているように感じる。以前は時節による天地からのエネルギー的なものももっと荒く大雑把だったのが、今は強弱はあっても荒いものは感じられない。すべてが細やか。来ているものが変わったのかこの受け皿が変わったのかは分からないけど。
たぶん身体の変化は私だけではないはずで、体感としてなくてもみんな少しずつゆっくりナニカが変わってきているように思う。
視覚聴覚そのものの機能は変わらないけど、その捉え方と言うか使う側の意識の変化で見えかた聴こえかたが変わってくる。ストッパーだったラインが外され、各機能の本来のパワーの幅が拡げられる。それが以前よりもより簡単に出来るようになってきている。本人が望めば、だけど。これも日々変わってきてるから、なかなか言語化できないのがもどかしい。



画像3



これから何するにも「自分はどう在りたいか」が起点となるので、やっぱり「今まではこうだった」とかこれ迄の当たり前を当たり前にそのままやり続けてると、どこかで「?」に辿り着くんじゃないのかな。そこで「今まで通りこうあるべき」が強いと、知らずとも周りや自分の感覚は変化してきてるから自分の中の違和感が大きくなって不安や心配という形で現れちゃうのかもしれない。
常に変化しているということ。全てのものが。自分も。自分も瞬間瞬間違う。違うのが当たり前で、違っていい。
「これはこうで・・」となった時に「これはこう・・だったけど、今は違うのかもしれない」というスキマを作ってみるようにすると、ガチガチだったものも少しずつ緩んできて楽になる。

緩んでくると面白いもので、いまの軽くなってきているのも手伝ってあれもこれもと波及してくる。そうすると前の事に掴まれないで「その時」と対話出来るようになるから、その時「いまの自分の心地よいこと」を感じてそれを基準に動けるようになる。
あまりにも「こうならなきゃ」とか「こうした方がいい」という外側からの事で生きることに慣れすぎちゃってるから、ホントに小さな目の前の事から少しずつ感覚を変えて「自分はどう感じてるのか」に目を向けるように、「自分を喜ばせること」を中心に在るように少しずつ変えてくとこれからは生きやすくなるんじゃないかなと思う。
始まったばかりだからみんなが練習ね。

この「感覚の違い、変化」が感じられるようになった時というか思い出し始めたとき「視えかた、捉えかた」も変わってきて、自分の世界がグンと拡がる。ラクになる。
そうなるのが良いのかよくないのかは人それぞれだしどっちでもいいのだけど、全体の流れはそう変化してきている。
外側の何かをよくしたり得ることで自分がよくなるという視点からの反転。


画像5


少しずつ 少しずつ
でも確実に
ナニカは日々変わってきている

それがどう変わっていくのか
まったく分からないから

もうやたら毎日その瞬間が
宝さがしのようで
愉しくてならない

愉快で
幸せだなー
ありがたき

ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。