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知らないという安心感 piece_vol.59

いままで生きてきた中で自分の中にこぼれ落ちてきた「点」たちが、ひとつまたひとつとあちらこちらで「線」になり始めている。
それは想わぬ点と点が結び付いたり、点とは思っていなかったものが点であったり、全くもって自分の考えなんか及ばないなあと思いしらされる。自分の考えなんて、本当にちっちゃく狭い。

それは自分を卑下してる訳ではなく、ただただ全体の流れというか計り知れないところの不可思議さと無限さへの感服と、自分という人間もその流れの中に含まれている喜びと。その中の一部なのだから、このちっちゃい頭で考えたってそりゃーちっぽけだわなという可笑しさと。

ぽつりぽつりと点が線になるのを観ると、ああ本当に今までの経験やらは何ひとつこぼれることなく自分というものを知るために、ジブンというものを思い出すために起きてきた事なんだなあと感じる。何ひとつこぼれることなく、良いと感じたことも良くないと感じたことも、まるっと含めてぜんぶ。

苦しさや不安の渦中にある時にはとてもじゃないけどそんな風には思えないけど、取りあえずは今まで生かされてきてそう感じられるようにはなってきたようなので、生きてきて良かったなあと思う。そして渦中にあるのであれば、"取りあえず生きてください"と言葉が舞う。それがどれだけ酷い言葉になろうとも。

自分がどれだけ経験してるか、どれだけ知っているか、そんなものを安心の楯として生きてきたところがあるけど、「どれだけ知らないか」が分かるたび物事がスムーズに運ばれる。あれだけ一生懸命貯めこんできた社会的世間的にヨシとされるものをほおり投げて、空いたスペースに新しい風が吹き抜ける。
安心の楯と思っていたものは自分の身動きを制限させるものだったと気づくたび、自分の真ん中の安心さが光を増しひろがっていく。
その真ん中の安心さにくつろぎ、また違う視野がひろがっていることに気づく。
そんな嬉しさ楽しさを繰り返していると、どんどん自分の空っぽさがヨロコビに変わっていき、あれほど自分に何もない事が不安のひとつであったのがどこへやら、古き安心防具を見つけては捨て、真ん中の安心安堵の光に戻っては安らぐ。

点と点が紡ぎ出す不思議を観るなかで、自分の中の恐怖というものと真正面から対峙したものほど、次への扉の鍵になってたなあと感じる。もちろんいま思えば、だけれども。でもそうなんだと分かっていれば、対峙しなきゃいけないものが現れたとき、ちょっと踏ん張れる。見なかったことにしようと蓋を閉める代わりに、嫌なんだけどー!でもこの先にはヒカリがあるんだよなあ・・そっち、見てみたいなあ・・となったりする。そして恐怖はマボロシと腑に落としやすくなっていき、また視点が変わる。

そうやって視点視野が変わっていくたび、観える世界も変わってくる。自分の何もなさに落ち着いていいんだという、確信の揺らぎが少なくなっていき、全体の流れへの信頼へと変わる。


タッタッタと全体へダイブしては、いつの間にか分別の世界であたふたしてることに気づき、あららとジブンの真ん中の安心でチカラを抜き、またダイブする。
ずーっと全体の安堵の中でプカプカ浮いていたいなあと思うけど、そういうことではないらしい。それでも、空っぽさから、安心の視点から観ながら現実を過ごせることも増えていき、日常が穏やかになっていく。
どこかに振りきれるのかしらと密かな期待をしてたりもしたけど、どうやらそれもマヤカシだったらしいので、いまこの身体のあるうちに、どこまで摩訶不思議の味わいを感じられるかしらとちょっと想ってみては、また空っぽの安心の中にまったりする。


人間であり
森羅万象であり
宇宙のひとつぶであり
ジブンが宇宙であり
大いなる流れの一部であり
ミクロであり
マクロであり

なんでもない
がある


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