仕事と子育ての両立という言葉への違和感

仕事と子育てを両立する。両立させるみたいな言葉を聞くときにどうしても違和感を感じる。結論を書けば、子育てが、家の掃除(加減も結果もやり方も自己流自己満)のようなものだからである。



両立とは

両立とは、そもそも両方を成立させるということだ。例えば、学業とアルバイトを両立させたとか。学業と部活動を両立させた等と使う。もう少し掘り下げてみれば、

学業の成績を落とすことなく、アルバイトをしながら学生期間をやり遂げたとか。部活動で毎日時間をとられながらも、第一志望の大学に現役合格したとか。

つまり、ある条件や水準を維持したとか。ある目標や成果を、両方抱えながらも達成した等の時に両立と用いることができる。言い換えるなら、目に見える判断指標やらがないと、達成とも成立とも両立とも言えないのである。



仕事と子育ての両立

仕事の方はまだ判断指標や達成がある。子育てに時間をとられるようになっても、同じ生産高を維持するとか。子育てに時間をとられながらも、同じ時間働いて仕事に穴をあけない等だ。

一方で子育てには、判断指標や達成がない。家の掃除のようなものだ。やろうと思えばどれだけでも、時間やらコストを投入することができる。反対に必要最低限(効率効果のバランス)を目標にすることもできる。その取組や関わり方を決めるのも、その達成の判断を行うのも自分だ。

だから、家の掃除(子育て)は非常に曖昧なものとなる。言葉は悪いが、自己流でやって、それに自己満足して、成立した!私は両立させた!!と言う言葉はなんとも誤りを存分に含んだ拙いものだと思わないだろうか。さらに、厄介に複雑にしていることとして、掃除と違って、子育ては取り組めば取り組むほど、やればやるほど結果に確実に目に見えて反映される訳ではない。これにより、正解や真実は闇に埋もれて、さらに自己流、自己満足が横行して、なんとも意味のない両立という言葉がまん延する。私には違和感しかない。



子育てと両立

もし子育てを両立という言葉を正しく用いたいのであれば、子供が成人したり、何かの卒業の節目に使うのは正しいと思う。卒業は1つの達成なのだから。

あるいは、子育てに、最低限の努力目標みたいな数値を掲げてそれを守れていれば、両立といえるようにすれば良いと思う。ただし、この方法は、望ましい子供との関わり方が明確に実証されていないと正解を提示できないので、かなり難しい。未来の話だ。




子育てと両立等言わずに自分の子育て観を固めるしかない

完全な真実や正解がわからないなら、自分でやり方を考えて、そのやり方に信念をもつしかない。つまりは、自分だけの努力目標値を決めて、それをしっかり守ることだ。しかしこれは、先の通りで、誤りや間違いを過分に含んでいる。

つまるところ、そもそも両立なんて格好つけずに、多少間違ってるかもだけど私の子育て観はこうで、私はそれを守りたい。その支援やサポートをしてほしいという筋道の方が、ストレートに相手に伝わると思う。




終わりに  子育て観について

子育てとは、子供に愛情をもって接し、人格形成の円滑な発展を促す。それと共に、知識、情操(心)、体、社会活動(社会通念実態や人間関係構築)といったその上部構造の発展を促すこと。

愛情を与えることとは自分にとってなにか?どう接することか。
何を伝えるか、どう伝えるか。何処に興味関心をもっているのか。
いっぱい運動するとはなにか。どんな運動か。
自然や昔話やルールや喜怒哀楽や人付き合いやら。言語、非言語化された様式をどう伝えていくのか。躾含め。

というわけでこの辺の答えにずばっと解答できるようにしておく方が余程、精神の安定と子育てパートナーとの話し合いが成立しやすくなると思う。

両立とか格好つけなくて良いと思う。できる範囲で、楽をしない(手抜きをしない)自分の子育て観を伝えて実行していけば良いと思う。

余談ですが、仕事で個人宅に行くと、一歳児頃の子供にテレビつけっぱとかよく見ます。子供は黙って親は時間か早く流れてそりゃ楽(手ぬき)だなぁと。サイレントベイビーという単語を言いたくなります…。

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