都会は、人の心を殺しにくると思った話

年に一度あるかないかの出張外泊にて、年子育児から離れて(4年ぶり?)、一人で都会の夜におりたちました。色々とギャップや感じたモヤモヤを整理しておこうと思います。





都会にあるのは、極値分散化と表層主義と同調圧力

極ミニスカのギャルやjkが町を闊歩し、飲食店の店員はスタイルの良い美人が多い。都会に驚く。都会という人が多いところになればなるほど、両極(美人とブスや、ミニスカとロンスカやらそういうある価値尺度)の分散は大きくなる。そして、街にはいろんな人間が溢れて混沌とすることになる。

そういう状況で混沌を避けるために、混乱を安定化させるために、自然発生的な美や良とする価値によって秩序化されていく。言い換えるならば、分かりやすい善として、見た目のよさ、パッと見のよさ、目を引くかが重宝される。本質ではなくて表層とわかりやすさお手軽さなのだ。

小さな本屋の本棚は、ただ本が棚に並ぶだけだが、大きな本屋には、話題の書とかおすすめコーナーが目立っているようなものだ。そして、それをみんなが良しとして、結果的に、隅に追いやられていくものと、目立つものの差が強調されることになる。冒頭の通り、私かわいくて美人でスタイルがいいっしょ?が、ミニスカというか店員としてというか、話題の書の目立つ場所に配置されるということだ。

今回は美の話だったが、学力でも食事でも音楽でも娯楽でもなんにでも当てはまると思う。分散して、自然発生的な良し(大衆善、人気主義)に傾き、差を強調されて、目立つと隅に分断されて、自然発生なものが確定的な価値にすりかわり、なんとなくの良しが一番表層の目立つところを独占するというか。

この都会プロセスは、自然発生的な良を確定的な価値にすりかえることに大きな問題を抱えている。田舎や地方よりも、陽キャラ陰キャラの圧が強くなるというか、都会らしい人とそうてない人を簡単に振り分けてしまうのだ。

結果として、すごく都会らしい人はスポットライトを浴びて輝き。ちょっと都会らしい人は、都会らしさを確固にするために、都会らしさを追い求める。都会らしくない人は、無理して都会ぶって悪目立ちするか。都会らしくないことに嫌気を感じ後ろ指さされながら生きることになる。あるいは、都会に反発して反抗して都会らしくないようにむしろ逆張りしたりするだろう。





都会は人の心を殺すようにてきている

さて、で誰が幸せになるのだろうか。都会は、凄く都会らしいスポットライトを浴びる人しか幸福ではない。ちょっと都会らしい人は、凄く都会らしい人への劣等感を感じるし。都会らしくあるための大衆善(表層的でみんながよしとするもの)への同調圧力に時間をさかれることになる。都会らしくない人はそもそも肩身が狭くて割りをくっている。ただそもそも都会らしくなれないのて、都会らしくあれ!の同調圧力からはその分解放されてはいる。しかし、反対に都会らしくならないというか、都会らしくないことにより反動的に向かおうとする気がする。生存戦略として、希少価値を求めるというか。実際は、誰かの作ったレールで全然珍しくはないのだが…。

こうして、極上位一部の人を除いて、都会は人の心を殺しに来る。人の心の形に介入してくる。不幸だ。不毛だ。




おわりに

都会は賑やかで派手だけれども、表面を上っ面を取り繕っているだけに過ぎないと思った。上っ面を漂うのは楽しいと思う。上で述べた通り、みんなにとってわかりやすく自然に良いものなのだから、なにも考えなくても、誰彼もそこそこ満足できて快楽に浸れる。

表層的なものも本質的なものも、どちらかに拘ることは悪いことだ。どちらも等価である。どちらも大事だ。しかし、表層的なものは上っ面なだけあって、何度も形をかえて繰り返されているだけだと思う。その数による希少性から言えば、ベクトルとしてはどちらも等価だが、濃さで言えば本質的なものを追求する方が好ましいとは思う。

都会や同調圧力やらでも、なにかに影響されて生きるのが人間だと言われればそれまでだ。ただ、私はその人の本質は心の中にあり、外からの影響でたまたまその心のどこかが強調されるだけで、全てはその人の心の中に根源はあるとおもっている。上っ面の影響ばかりで本当の心とみつめあう時間が出来ないのはもったいないことに思う。

最後になるが、地方都市程度が多分生きやすくて、もっと過疎ると、うちの村はこのやり方なんだ!ともっと強い同調圧力に苦しめられる。あるいは、それを避けて完全に関わりなく完全個人暮らしを選ぶことになり、都会よりも生きにくいと思う。(それにあうひとはいいのだが)  一般で平均的な人間の知覚能力から逆算すれば、幸福な生活のための人口と密集の最適解は導ける気がする。

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