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盲信的に多様性を推進する人への指摘

多様性を受け入れることが当たり前、多様性は受け入れられて当然、受け入れられるべきという風潮が強い。それは行き過ぎ誤りだと思うので、整理しておこうと思う。




具体例で考える違和感

デカルトの方法叙説にあるように、ん?と思った時は、図式構図を単純化したり、極端な例を挙げてみると、その違和感の正体に気づきやすい。

1、昆虫食をする人と同席する食事、あるいはその食べ物が事故でこちらの器に跳ねてくる等も含め。
2、無生物との結婚
3、一夫多妻制
4、Xジェンダーの人のための全個室トイレ化

目の前でバリバリ昆虫をむさぼる人と同じ席で食べたいと思うか。食べれるのか。どうだろう。ひょっとしたらカレーうどんの汁のように、事故でこちらになにか飛んでくることがあるかもしれないし、独特の匂いがするかもしれない。

はたまた、ぬいぐるみとか無生物との結婚も結婚だ!!と叫ぶ人がいるかもしれない。そしてその人らは結婚したんだから、支援金や配偶者控除を受けさせろとかいうかもしれない。

あとは、一夫多妻制で多くの女性と結婚できる自由をなぜ認めないのかとなったり、セカンドパートナーとか。結婚の3役割(子供育児、性、パートナーシップ)を分割して3人の女性とそれぞれの結びつき方を主張する人等もでてくるかもしれない。

他には、Xジェンダーという性認識だから、個室を使わせろとか。全員平等になるべくトイレは全個室化だとか言うかもしれない。


さてあなたは、どの多様性も当然認められるべきだと思っただろうか。それとも違和感を感じただろうか。違和感の説明のために、多様性について少し掘り下げてみる。




消極的多様性と、積極的多様性

多様性を求める人や多様性についてまわる二つの態度にふれる。

消極的多様性とは

ある個体が有する少数派の、内面的気質(外には見えない)、または外出的気質性質や行動傾向について、周囲から差別、偏見なく認識され、受け止められ扱われること。

自己定義

積極的多様性とは

消極的多様性に加えて、差別や偏見をなくし、そこで被る不平等を社会的に是正すること。社会通念や制度として平等にすること。

自己定義


分かりやすくいえば、LGBTの人がいるとして、街中を歩いたりするときにパートナーと手を繋いでいるその事を、こそこそとなにか話されたり、冷ややかな視線を浴びせられなければいい。ぐらいのものが消極的多様性であり。一方で、積極的多様性は、同性でも結婚は結婚なんだから、助成金や支援金やら社会保障制度も同様に受けられて当然だし、遺産相続の控除も同様にあるべきだ等という場合だ。周囲を越えて社会にその理解を求める点に差がある。そうなると、それを認めることで直接的に今より損をする人も出てくるし、間接的に損をする人も出てくるし、社会的なコストの増大に懸念を示す人もでてくるだろう。




多様性の段階

多様性が広まる、多様性が浸透するには次の四段階を踏む。

1、認識
2、理解
3、許容
4、平等化、社会制度化、社会通念化

昆虫食という言葉を最近目にするけれど、どういうことだろうというのが1の認識である。まずは知覚認識することから始まる。

そして、牛や豚やらよりも動物性タンパク質をとるなら環境負荷的に優秀だとか、文化によって食事するものは違うだけだし、時代的には~、実際の味は~などと、その背景や相手の考え方にふれて、今まで知らなかった新しい視点を理解する2の段階に至る。

そして、頭で理解したとしても、それを心でどう思うか、長年染み付いた価値観を簡単に変えて、心からなんの偏見やらもなく素で受け止められるようになり、気にならなくなるのが許容だ。

最後は、個人の許容を越えて社会として平等にするとか、社会全体での許容として、不当に扱われることがないように制度やら法整備を進めるのが、4の段階だ。

先であげた消極的多様性とは、この2ないし3ぐらいまでを求めるものであり、積極的多様性とは、この4までを求めることだろう。




違和感の正体

つまり、多様性を盲目的に推進する人への指摘、違和感の正体とは、これまでの話をまとめた以下の通り。

1、逆差別や主義心情(内心)の自由の扱い
2、社会化にあたってのコストや影響の問題。それが認められるなら同様のものも認めなければならなくなり、つまり、伝統的社会秩序の芋づる式崩壊と、その悪用による社会の乱れ、腐敗の温床になる可能性がある点。


2の段階で理解して、誤解や偏見や差別やらがなくなる。そこまではどんな物事、多様性でも全く問題のない相互理解の話でしかない。しかし、3の許容、心の領域にまで踏み込むのは疑問がある。価値観の更新ができない、あるいは新しい価値観視点をどうしても心で受け止められないのは悪なのか?理解の結果、悪態ついたり差別はしないけれど、心の中で気持ち悪い(許容できない)と思うこと事態は、本来自由だろう。

つい先日ツイッターで秘書官がそんな発言をしたニュースがあったが、あれもツイッター(呟き)は内心の範囲か(公的な場所か)どうかが論点であって、彼が気持ち悪いと思うこと、発言すること(どこまでの場所でするかどうかの判定が非常にシビアだが…)事態は別にその人の自由だと思う。刑期を終えた殺人犯は一般人と同じだ。でも隣の家に住むことに心がざわつかない人はいるのだろうか。気にしなくなるようにならなければいけないのか?

2は、今よりも多様性を平等にするという個々人にあわせた形にするほど、物質的な分野ではコストがかかる凝った形になるのが当たり前なので、社会的コストの増大、そして税で国民に転嫁される。

さて、マンションの一階に住む人は、使いもしないあつてもなくてもかわらないエレベーターの維持費を払う必然性かあるのか?という問になる。

一方で制度的な分野では、個々のカスタマイズに追い付かなくなり、ベーシックインカムのように、全員を対象としたものでしか、いずれ多様性を受けとめきれなくなることが出来なくなる。つまり、誰でも可能!!とは、本来の必要な人に必要な支援という本質から外れてしまう。制度として無駄が多く、腐敗(悪用)の温床になる未来しか見えない。




おわりに

以前差別についての記事を書いた。

簡潔にまとめるならば、よく言われるな理由があるかどうかが差別と区別の違いというのは誤りだ。

差別とは、何を善とするかの価値観、望む社会や暮らしの話だとかいた。なので、区別しなければいけないものは一緒にしていないか。区別してはいけないものを、区別していないかを常に自分に問う作業である。

多様性の話も同質である。盲目的に自分は平等に扱われるべきだ。盲目的に3の許容までされるべきだと考えるのは、誤りだ。区別という言葉で、より良い社会について考えることが、多様性の本質である。

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