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差別について考えてみた。

メンタリストダイゴの差別発言炎上問題を機に、差別についてぐだぐだと色々考えている。整理のために書く。なんというか、彼の発言に正論と賛同する人も、優性学的で危険思想のように反論する人も、どうも本質が違うように思えて、自分なりの考えを書きたい。もっと大きな視点でみなと差別問題を分かち合いたい。



差別とは

人間は公平で平等であるべきだよねという尊厳を貶めることである。つまり、人間を差や区切ることで、それぞれ別の違う不平で不平等な扱いをすることである。

では、男性と女性で違う扱いをすること。子供と大人で違う扱いをすること。これも差別なのだろうか。



差別と区別

よく言われる言葉があるように、差別と区別は違う。合理的な理由があれば、それは区別であり必要なことで、合理的な理由がなければ、それは差別であるといわれている。男性と女性で筋力や体格に差があるのだから、分ける必要がある。子供と大人も体格や知性理性に差があるのだから、分ける必要がある。だから差別ではなく区別で、それは必要で当然なことだと。


一見正しくみえるが、この合理的な理由というのもなかなかに曖昧なものなのである。例えば、某大学で女性より男性を優遇する入試が行われたことがあった。その理由の1つとして、女性は出産育児でキャリアを離れることが多く、男性の人材を育成した方が人材供給の理由から、より合理的であるとしたのだ。さてこれは男女差別なのか、区別なのか。あるいは、白人と比較して黒人の犯罪発生率や重大犯罪件数が高いという統計的データがあって、それを理由に白人より黒人を優先的に職務質問をする。警官が黒人に差をもって扱うことは黒人差別なのか。区別なのか。これも合理的な理由はある。


言ってることは間違っていない(理屈に合っている、合理的である)。しかし、なにかどこかおかしいと思う人もいるだろうし、上の例を両方とも、全く差別的ではないとみる人もいるだろう。先に答えを書いておけば、差別、区別は合理的な理由を超えた善悪の価値判断を含むからである。その人の価値判断にあっていれば、それは差別ではなく区別となり、必要なことになってしまう。合理性で話をおわらせてはいけないのだ。



差別や区別は必要である。

差別や区別だ、価値判断だとごちゃごちゃしてくるならば、面倒くさいからいっそのこと、全く差別や区別をしなければいいのではないかと思ってしまう。しかし、それもやはりどこかおかしい。男女関係なしに全員共通の1つの脱衣場は変だろう。男女年齢人種体格、何も関係なしに、よーいドンで100m先の食べ物を奪い合うのも変だ。


そもそも論として、人間の営みに差別区別は必要である。事象を正しく認識して世界を拡大し、理解を深めていくには、違いを突き詰めて細分化していく、それにあった対応を取る必要があるからである。同じようなものだとして砂糖と塩を差別区別なく同一に扱うことはできない。


しかし、ある人が言うかもしれない。砂糖と塩を区別するのは差別的だ!!と、そんな馬鹿なと思うかもしれないが、その人にとっては、美味しい味付けの料理を食べるべきという価値観がないのかもしれない。美味しい料理を食べるよりも、砂糖と塩を同一に扱いたいのかもしれない。あるいはもっと大きな理由があるのかもしれない。


一旦まとめよう。その人やモノや状況に即した役割や目的に、適合する意味での差別や区別は必要である。砂糖と塩を料理に使うという点で区別するのは全くもって正しい。しかし、砂糖の方が人間の健康を害する可能性が高いため、砂糖に10倍の税金をかけて流通を制限するは正しいのか。人によりけりだろう。つまり、差別や区別は必要だが、良い差別区別や悪い差別区別がある。そこにどうしたって、その人なりの善悪の価値判断を含んでいるのである。



差別が生まれるとき

つまり、ある人が私の基準では、不公平で不平等だと感じた瞬間に、そこに差別という認識が生まれるのである。

1人だけしか認識しない差別(砂糖と塩差別問題)は変人の話で済む。多くの賛同者がいれば、是非はともかく、公平平等にするためにルールや行動でより守る方向にシフトする。大事にならずに、水面下でくすぶる軽微な差別(容姿による対応変化等)もあるだろう。



差別への対処の難しさ

明確に全く理由がない差別区別は、よくない事だと認識しやすい。順番待ちで白人が黒人より絶対に先に並ぶのはおかしいし、試験問題を紙が配られた人からスタートして良いといのもおかしい。間違っている。

自分でどうこうすることができない事柄(人種、性別、誕生月、血液型、遺伝子等、先天的で変更のきかない絶対的なもの)を、ただそれだけを理由に、不平不平等な扱いを受けることは、差別と認識しやすい。

しかし、差別はそう単純な話ばかりではない。大きくは以下の3点が対応を難しくさせるのである。それだけ人の立場や視点が様々になってまとまりにくいと言い換えてもよい。


個人的な価値と社会的な価値の峻別、認識(結論への大枠の賛成反対)

絶対性(自己責任論)と因果関係・証明(結論から導く内容方法への吟味)

守るということで奪う、減る資源分配の問題(実務現実としての妥協点)


上述の某大学の入試男女差別問題の場合、大学は人材供給のための機能もある機関だから、一部平等性が損なわれてもそれは善である。一方、大学は単なる学び舎であり、教育成長の機会は学力でのみ測られることが善とする。こうした大学に抱く見出す、個人的な価値と社会的な価値、大枠としての賛成・反対の立場がある。

学力というものは本当に自己責任、自己努力だけのものなのだろうか。遺伝子と知性知能の関連性の高さはすでに指摘されているし、教育機会や教育費用による格差もある。入学時点での学力ではなく、成長予測や意欲も加味するべきという考え方もでてくるだろう。結論に賛成・反対の立場であっても、本人にどうすることもできない事柄なのか、それを理由に選ぶことが平等なのかという差別区別の議論もでてくる。

そして、何かを理由に選ぶということ、ルールがあるということは、ルールによって守られる(そのルールで得する人)と、そうでない人を生む。得する側と損する側とで、直接的な資源の再分配が行われる場合もあるし、間接的に、資源を再分配する場合もある。善悪はわかるし、その方法も理解できるけれど、この再分配の割合や分配先に不満がある、現実的な妥協点、落としどころは資源に限りがあるのだからもっと理想値から下げてほしい等もでてくる。



メンタリストdaigoの炎上問題について

というわけでようやくスタート地点に帰ってきた。結局人によつて、ざっくり上3つの項目での見解と相違があって賛同や反対批判が渦まいている。

生活保護者やホームレスを、彼彼女らがそういう存在であるという理由だけで、いらない方がいい。邪魔だ。プラスにならない。と思う考えるのは悪い差別である。彼ら彼女らが社会全体の経済活動にプラスになっていないの明白だが、では、経済活動にプラスにならないと、人は生きていけないのか。もっといえばお金を稼ぐことが最高善で、一番稼いでいる人が一番偉いのか。これは誤りだ。命は絶対尊く守るべきとは言わないが、経済活動や社会活動だけでの計測はできないので誤りである。


次は、生活保護者やホームレスは、自己責任なのか。怠惰や堕落によるものなのか。そしてそれが原因で、何かに失敗したのか。正直、これは各自の事情が様々でわからない。しかし、頑張ればなんとかなるのに、働かない奴、自分でなんとかしようとせずに、人のおこぼれでよしとした奴でダメな奴と自己責任(能力主義)を、”全員に”当てはめるのは差別だ。ただし、本当にその通りな奴もいるだろう。ギャンブルや投資で一攫千金を夢見て大失敗、生活保護へ。なぜそのリスクを生活保護で国民全員に負担させるのかというのは正当な抗議だと思う。


最後は分配の問題である。生活保護やホームレスにお金を出す前に、優先度の高い(優先度の高さというのがそもそも価値観だが・・・)、前途ある若者に優遇しようとか、可愛い猫?の方を生かしてあげたい等と、言うのだろう。これについては、資源分配=政策政治の話になり膨大なので割愛する。しかし、政策政治の話であっても、命は絶対的に尊い!という偽善者か思考停止の人に、この分野の話も猛反発されそうである。




おわりに 命の尊さについて 

稼げないなら生きない方がいい。生きていてはいけない。いない方がいいは誤りである。しかし、命は絶対的に尊くはないのである。大前提として、生物は、他の生命を取り込み、生きている。すべての命は、連鎖・循環していくものだ。しかし、それをはき違えて、盲目的に尊いというのは誤りである。それを認めるならば、あらゆる生命は何も取り込めず、生きていけない。

人によっては命に差をつけることで、その問題を回避するかもしれない。ゴキブリは殺してOKだけど、猫は殺してはダメ。ゴキブリに命はないけど、猫にはある。同様にイルカにも、クジラにも・・・。ベジタリアンだ。肉は生物だから、殺生だから・・・。差や序列をつけることの方が、偽善的であると思う。

人間も大きな生命の一部で、他の動植物がしているように生きているだけである。他の動植物がするように、自分に合った環境で暮らそう、環境にあわせて暮らそうとしているだけだ。ただ人間は他の動植物を従えたり、都合よく扱う力が強いだけだ。でもそれが人間だ。可哀想だとか、命は絶対的に尊いと考えるのは、本来差をつけるべきじゃないものに、差をつけることで、偽善的差別主義者になるか。それとも、絶対尊いとして差をつけないことで、思考停止しているかのどちらかである。

人間が前に進むためには、差別区別して細分化して認識して、それに合った方法を見出していくしかない。獲物を取れない動物は死ぬのが生命や自然の基本なのだから、全部ではない一部のどうしようもない生活保護者は、資源の再分配が滞れば死ぬだけである。

さて、科学や人類の進歩の先がくれば、差別区別をもっと正確にスマートに行えるようになるだろう。さらに言えば、絶対的とみなされていた差別につながりやすい要因も、治せる時が来るのかもしれない。性別変更システムとか、人種変更システムとか。あるいは、過去を振り返れば、ただただ体が大きくて力が強い人に虐げられていた時代もあったろう。今は、こんな時代でお金が稼げる人が偉そうに強そうに見える時代とそれだけである。バスケがない時代には、どんなにすごいバスケプレイヤーも活躍できないのである。

偽善的差別、思考停止なこと、今の時代だから偉ぶってるだけなこと、差別は過去未来いつの時代でもあること。そういうのが嫌だし、とっとと人類はもっと先の思考精神領域にすすめないものかと嫌になる。


区別するべきものを区別せずに、一緒くたに扱うこと

区別してはいけないものを、区別して差をつけること。

私は差別しているのか?差別的かと思ったら、上2つの言葉を思い出してみるといいかもしれない。長々書いたが、この3行だけで良かった話。

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