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手鏡日録:2024年5月20日

副都心線の雑司が谷駅から階段を上がり、地上の光が見えたとたん、ひんやりとした空気に包まれた。リュックの中の上着を取り出そうかと逡巡するうちに、路上の気温はあたたかさを取り戻した。今の冷気はなんだったのだろうか。ともあれ、まずは鬼子母神から雑司が谷散歩を始めることにする。
都電の踏切を渡り、欅の聳え立つ参道に足を踏み入れると、ひゅっと涼しい空気がぶつかる。さっきの冷気とは違う。周りの市街化に抗うように枝を張り巡らせた老欅の執念のような木陰が、じっと凝らせたかのような涼気である。
虎口よろしく直角に参道を曲がると、新緑の奥に鬼子母神堂が見えてきた。若葉から青葉に近づきつつある樹々がちょっとしたドームのような社叢をかたちづくっているその下を歩く。うっすら汗ばんだ肌を冷ましてくれる微風を享けて、今がいちばんいい季節だと思う。圧倒的な銀杏の横を通り、まずはお参りを。予約がないと堂内は見学できないようだが、受付の二人はしかつめらしく眉根を寄せつつスマホを眺めていて、それ以外の人気はなかった。薄暗い堂内にあって、板絵の人物の白い肌が浮かび上がっている。鳩尾のあたりに冷たい焦燥が湧いてきて、堂を背に稲荷社へ回る。どうやら稲荷も大銀杏も鬼子母神の創建よりも古いようで、銀杏のつくりだす心地よい涼しさが辺りを満たしていた。
かつての谷の雰囲気を感じたくて、鬼子母神からまっすぐ緩やかな坂を下る。二つほどの寺社を抜けて都電を再び渡り、雑司ケ谷霊園にやってきた。
霊園の管理事務所で貼り出された見取り図を眺めていると、親切な管理事務所の職員に案内図をいただく。方向音痴ゆえに正直途方に暮れていたところで、大変ありがたかった。俄然ぐるりと霊園を巡ってみたくなる。
大きく時計回りに、まずは東條英機、永井荷風、岩瀬忠震の墓所を。愛読してきた小泉八雲には長く手を合わせる。サトウハチロー、それから荻野吟子。顕彰されてほしい人が顕彰されているのは少しうれしい。竹久夢二の素朴な墓所は木陰でまどろんでいるようで、これほどかわいいと感じる墓もなかろうと思う。村山槐多、岩野泡鳴あたりで不意に蒸し暑くなり、シャツの袖をまくる。頭上には首都高の騒音が響いている。さぞ騒がしい泉下だろう。ジョン万次郎の墓に向かう途中、大きな墓の基壇に猫が悠然と寝そべっており、これが雑司ケ谷の猫というやつだなと思う。ジョン万次郎の墓石は何とも言えぬまろやかな変色を見せていて、まんじろう、の語感そのもの。東郷青児、大須賀乙字と巡り、夏目漱石の墓はさすがにでかかった。墓もまた自ずと生者の信仰にふさわしいかたちを取っていくようだ。窪田空穂、さらに森田草平。このへんで、ぐっと冷ややかな空気が身を包む。夕刻に差しかかったせいだろうか。白詰草に靴が沈む一帯を、椋鳥を驚かしつつ進む。ラファエル・ケーベル、江戸家猫八と来て、もとの管理事務所へ戻ってきた。
半日に満たない間に、あらゆる初夏の冷気を浴びたような気がする。脚はすっかり草臥れて、せっかく教えてもらった喫茶店には辿り着けなさそうだ。さらにこれから豆の木の句会なのだが、大丈夫だろうか。
握りしめてくしゃくしゃになった霊園の案内図をしまおうとすると、紙の裏面にはいつの間にか羽虫が潰れている。この時すっと肚に忍び込んだ冷気が、雑司が谷駅で感じたものにいちばん近かった。

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