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手鏡日録:2024年4月26日
この四月、慣れない仕事であまりに楽しく、しかしやはり疲れてしまっていて、文章を書くどころではなかった。文章ばかりか俳句もずいぶん苦労したので、相当余裕がなかったのだと思う。
疲れた頭で風呂に入っていたら、『山賊の歌』が浮かんできた。
昔、小学校の音楽で配られた小さな歌集に載っていたのだが、授業で歌った記憶はない。いや歌集で知るより先に、父親が風呂場で歌っていたので知ったのだった。
父親は、およそ子どもが畏敬の念を抱くような特技を持ち合わせていなかった。折り紙は「くじら」という謎の物体しかできず、絵の腕前も悲惨なもので決して描きたがらなかった。歌についてもまったくの音痴だったのだが、風呂で気分が良くなると唯一歌っていたのが『山賊の歌』だった。
雨が降れば 小川ができ
風が吹けば 山ができる
陰鬱な節回しに加えて、歌詞にもいっさい心に響くところがなく、どうしてこんな歌を歌うんだろうと思っていた。そもそもその旋律も、父の音痴ゆえに合っているのかどうかすら不明で、学校の歌集に楽譜が載っていたおかげで正しいメロディがわかったようなものだ。
しかしこの歌を、父親は浴槽に浸かりながらたびたび歌った。ほかの歌をせがんでも、必ず『山賊の歌』だった。
やっほ やほほほ
さみしい ところ
それは歌というより、ことばにさらに抑揚がついた、地声に近いものだった。乾いた地面を引き摺られ、掠れきって夜に消えていく声。やがてその地声は、タイルの目地に黴が根を張るように風呂場に巣食ってしまい、ときどき頭の中に響くようになった。そんな実家の風呂も改修して久しくなったが、今でも遠く離れた自宅の浴室で、ときどき『山賊の歌』を思い出す。
やっほ やほほほ
さみしい ところ
あまりにうるさく脳裏を巡るので、自分でも歌ってみる。
でも私の『山賊の歌』は歌集の楽譜をなぞるばかりで、父の地声には程遠い。別にそれで良いのだけれど、とバスタブの縁を撫でる。今夜の風呂場は、ひときわ狭い。
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