「自己開示」は「自己愛」に近い

9月某日。初めてカウンセリングを受け、ほぼ初めて人に恋愛相談をした。

いきなり月並みな表現で申し訳ないけれど、月日が流れるのは早すぎる……! あれからもう1ヶ月以上経つなんて、カレンダーで日を数えてみて自然と声が出てしまった。カウンセリングでしっかりと悩みを聞いてもらい、自分のなかで整理ができていたからか、あれから同じ悩みがぶり返してくることは一切なかったので、安堵している。

10月。もう何の悩みもなくなったと思っていたのだけれど、それでもまた、cotreeさんのオンラインカウンセリングを申し込む自分がいた。半ばドキドキしながら、ある種の覚悟をもって。

今回は、これまであまり誰にも明かしたことがなく、かつ少しだけ恥ずかしい悩みを相談しようと決めていた。カウンセリングが終わり、このnoteを書いている今も、少しだけ緊張している。

「面白いと思われたい」という願望が、私にはある。

面白い、というよりも……「話していて楽しいと思われたい」、に近いかもしれない。私といてよかった、楽しく有意義な時間を過ごせた、と満足して帰ってもらいたいのだ。

少なくとも相手には、私といる時間を後悔したまま一日を終えてほしくない。

だから、初対面の人に限らず、ある程度お互いを知っている相手と話すときでも、一定以上の緊張をしてしまう。物心ついたときからなので、これはもう習性であり性格なのだけど、ずっとずっと悩んでいて、どうすれば改善するんだろう……と毎日のように考えているのだ。

ひどいときには、「あまり相手を楽しませてあげられるコンディションじゃないから」という理由だけで、最初から会う約束を避ける場合もある。体調も都合も悪くないのに、だ。

自分にマイナスイメージを持たれるくらいなら、会わないほうがマシ。できるだけ交流せず、会話する機会を避けてしまう。寂しいは寂しいけれど、「こいつつまんねえな」と思われるよりは良いと思って、ひとりを選ぶことが多い

私は自分でこの状態を「自意識と人見知りのこじらせ」と呼んでるのだけど、あながち外れてもいないと思ってる。要は相手の気持ちや立場よりも、自分がどう思われるかだけに心を砕いてしまってる状態なのだ。

そこまで客観視することはできても、いざ人と会話しようとすると、「私が積極的に話題を提供して、楽しませてあげなきゃ……」というプレッシャーから逃れられない。

こういう悩みは、あまり周囲の人には相談しにくいものだ。

その点、オンラインカウンセリングならちょうどいい。こう書いてしまってはドライかもしれないけれど、ちょっと人には言いにくい悩みを相談しても、定期的に会う相手ではないから、思い切った自己開示もしやすい

直前まで緊張していたけれど、1分1分が貴重だと思い、洗いざらい話した。

面白い人だと思われたい自意識が抜けないこと。この年齢になっても人見知りが直らないこと。人と交流するのがつらいけど、ひとりでいるのも寂しいときがあること……。

恥ずかしい悩みを人に相談することは、どこか自分をいたたまれなくさせ、まさに「穴があったら入りたい」気持ちにさせると思っていたのに、口にすればするほど楽になっていくのが不思議な心地だった。

変な話だけれど、悩みを言うだけ言って、吐き出したあとは、カウンセラーさんの答えがなくてもどこかスッキリとして、道筋がついたようにも思えた。まだ解決策なんてひとつも見つかっていないのに、「言えた」という事実がある種の自信をくれたのだと感じる。

自己開示するのは、自己愛に近い。

自分のことを自分で分かっていなければ、自己開示はできない。自分はこう思っているんだ、こう感じているんだ、こうしていきたいんだ……整理なんてついてなくても、まともな言葉にできていなくてもいいから、自分で自分を理解し、大切にしたい思いさえあれば、自分の一部を相手にさらけだすことはそのまま、自分を愛することに繋がる。

カウンセラーさんからどんな言葉をいただいたのか、ここで詳しく書くことはできないのだけど、少なくとも、コミュニケーションに対する抵抗感が薄まったことだけは確かだ。最も濃い、奥底にこびりつくようだった抵抗感。

明日からは、少しだけ違う自分として生きられるのかもしれない。そう思うだけで、目を覚ますのが楽しみでならない。

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▼オンラインカウンセリング「cotree」

※こちらは、オンラインカウンセリング「cotree」のご協力によるカウンセリング体験記事です。

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