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「羨ましさ」から解放されて知ったこと

TwitterやInstagramをほぼ見なくなった。しっかり数えてないから体感だけれど、おそらく1ヶ月は経ったと思う。スマホからアプリを消し、最後の砦だったYouTubeやTik tokのアプリも気づいたらなくなっていた。自分でも驚くほど、心に波風が立つことが減り、穏やかになった。

友人と話していてつくづく感じたのは、「SNSを見なくなったことによって、人に対して”羨ましい”と思うことが減った」ということ。これは体感してみて始めて思い至ったのだけど、羨ましさや嫉妬という感情をわざわざ得るためにSNSを見ていたのかもしれない。そう考えるくらいに、自分とは違う人たちを求めては吸収しようとしていたのだ、きっと。

それらのすべてが、悪いことじゃない。羨ましい、自分もああなりたいと思うことによって、エネルギーをプラスに転じて頑張れる人だって世の中にはいるはずだ。私は、そうじゃなかったというだけ。見れば見るほど羨ましくて、直視したくないドロドロしたネガティブな塊に飲まれて苦しくて苦しくて仕方なかった。全部、自分から進んで見ていたからだ。その証拠にいま、こんなに清々しくて息がしやすい。

SNSが悪いわけじゃないし、嫌いになったわけでもない。自分にとって毒にならない摂取量と距離感を覚えただけだ。

これからどんどんインターネットは便利になって、新しいサービスも増えていって、私たちが想像もできなかったようなことができるようになって、速度もびゅんびゅん増していくんだろう。

そして、その大きな大きな時代の流れみたいなものに乗れずにいると、情報を得るのが遅れたり、そのために損をしたり、時には命に関わることにもなってしまうのかもしれない。

でも、あえて逆行したい

インターネットは好きだ。SNSも好きだ。これがなければ出会えなかった人たち、知らなかったことがたくさんある、仕事だってできない。

でも、そのうえで、あえて逆行する

私にとってはこれ以上のインターネットやSNSは毒になる。自分の身体をもって適量を知ったからこれ以上は要らないし足りている。そのせいで話題に追いつけなくなったとしても、周りにいてくれる大切な人たちに「なになに? 教えて!」と聞いて教えてもらえばいい。温度のあるやりとりの中に帰りたい。自分の気持ちを見つめて、自分の身体の声を聞いて、その日その時に必要なものを自分の判断と決断によって選び取り、供給していきたい。それが生きることだと思うから。

簡単に気軽に顔を合わせることもできなくなったこの時代、私のこの選択はきっと世界を広げはしないし、会えなくなる人も出てくるだろう。それでもいい。そのうえで奇跡的にも会えた人たちの顔は忘れないと思うし、忘れられない交流をこれから育んでいきたい。それが生きることだと思うから。

少なくとも、私にとっては。


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