不安な気持ちに実体はない
「不安な気持ちをどうすればよいでしょうか」と弟子が師匠へ問いかけた。師匠は「不安な気持ちをここへ持ってきなさい。持ってこられたらどうにかしてあげよう」と応えた。不安は実体のないもの。「これが不安な気持ちです」と直接見せることなどできず、弟子は正直にそう伝える。師匠は言った。「そうか、ないのか。不安な気持ちがないのなら、もう解決じゃないか」。屁理屈ともとれる禅問答。
不安だなあ……と漠然と感じ、なんとなく焦ったり落ち込んでしまったりするとき、この禅問答のことを思い出す。そして、不安なんて、たかが気の持ちようだよなあと、心が軽くなる。不安だと思えばずっと不安だし、大丈夫だと思えばきっと大丈夫なのだ。人の心や脳は意外と単純なのだと思える。
私が特別に楽観的で運が良いだけなのかもしれない。それはそれとして、いたずらに不安に駆られて時間をムダにするよりは、少しでも不安を拭えるよう準備するのが合理的なんじゃないだろうか。
こういう話をすると、「準備しようのない不安だってあるじゃないか」と声が聞こえる。
たしかに準備しようのない不安もある。事故に遭うかもしれない、治療中の病気やケガが治るかわからない、闘病中である大切な人の心境を思うとやるせない……。いくら準備をしようにも、先の見えない未来で何がどうなるかわからない種類の不安もあるものだ。
出典が不明で恐縮だが、そういうときに思い出すことがある。
それは、「祈りの効用」について。
祈りと聞くと、キリスト教や仏教をはじめとする宗教のイメージが強く現れる。マリア像に向かって、お釈迦様に向かって、静かに手を合わせ祈りを捧げる様子が思い浮かぶ。
同時に、「ただ祈ったって何がどうなるわけでもない」とやるせなく思ってしまうかもしれない。
考え方のひとつとして、「手の尽くしようがなくなった」「思いつく限りのことはすべてやった」段階に至った人たちは、ほかに何もできることがない無力さに苛まれるよりも、「祈ることができる自分」がいることに救いを見出すほうが救われることがあるのだ。
ただひたすらに、祈る。祈る。祈る。
お百度参りなどもその例だと思う。具体的な、実践的な対策を施し、もう後がない地点までたどり着いたときには、祈りが次の選択肢になり得る。
何度祈っても変わらないかもしれない。けれど、変わるかもしれない。自分のために、大切な人のために、どれだけ祈ることができたかが心の拠り所になる。
不安な気持ちに実体はないのだ。過去も、今も、これからも、形を持つことはずっとない。
それなら、同じく触れることのできない「祈り」でもって気持ちを慰め、終止符を打つのが良いのではないか。
祈ることは何度でもできる。自分の気が済むまで、ひとつの結果が出るまで、ただの習慣となってしまうまで、辞めない限り祈りは続く。
祈りの効用、バカにできないと私は思う。実際に何度も神社へ通っては祈りを捧げ、神様に感謝したくなるほどのラッキーに恵まれてきたから。少々怪しい文脈になってしまったけれど、少なくとも5円投げ込んで手を合わせれば十分祈りとなるのだ。やっておいて損はないんじゃないだろうか。
いつまでも実体のない不安に、悩まされるよりは。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。サポートいただけた分は、おうちで飲むココアかピルクルを買うのに使います。