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「言わなくてもわかるでしょ」から卒業する

言わなくてもわかるでしょ。常識で考えたらこうでしょ。普通はこうするでしょ。少しは自分で考えて、察して動いてよ。

はっきり言葉にはせずとも、ずっとこう思いながら生きてきたのかもしれない。特定の誰かに対してではなく漠然と、境界線の曖昧な対象に向けて。

言葉にせずともわかるはず。普通はこう考えるはず。

「常識」を印籠のように掲げて、察せないほうが悪いのだと突きつけながら生きてきた。傲慢だ。かと思えば「常識や普通にはとらわれたくない」と同じ頭で思うのだから、自分という存在の脈絡のなさに驚いて呆然とすることがある。

わたしは、「言わなくてもわかるでしょ」から卒業したい。

この「察してよ病」は、会社員として働いていた当時がいちばん症状が重かった。わたしがこう動いているのだから、サポート役はこう動くべきだ!と、いつだってそういった自分主体の働き方をしていた。

葬儀会社に勤めていた頃のこと。わたしの動きに合わせてまともな補助もできない後輩がいたら「なるべくサポートにつけないでほしい」とこっそり上司に伝える、なんてことはザラだった。

教育役のようなポジションを任されても、求める水準が高すぎたのか下についた後輩は次々と辞めていった。仕事が激務だったのもあるだろうけれど。

ある日なんかは、後輩が請求書の印刷に手間取っていたのを見るやいなやイライラが爆発した。「エラーが出て、調子がおかしくて……」としどろもどろな後輩から無言でマウスを奪い取り、黙って請求書を印刷した。口を開けば怒鳴ってしまいそうだったので、その後も無言で自分の仕事を遂行し、必要事項しかやりとりしないように努めた。

「……こわいです」と面と向かって言われたのは、生まれて初めてだった。

なぜだろう?私はずっと不思議で、疑問だった。

なぜわからないのだろう?

少し考えればわかることなのに、どうして教えられないと思いつけないのだろう?

今なら、どれだけ利己的だったのか、痛いほどわかる。

「言わなくてもわかるでしょ」が標準モードに設定されている人とは、仕事もしにくいしコミュニケーションも難しい。何より、ともに生きていくには結構な息苦しさが伴う。

言わなきゃわからないことがあるのだ。いや、違う。たとえ言葉にしたとしても、伝わらない思いのほうがこの世には多い。ただ言葉にするだけじゃ足りないことなんて、いくらでもある。

「察してよ病」を少しでも治療するために、言葉にする手間を惜しまないようにしたい。周りの人と、そして、自分自身のために。


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