私、ずっと見たくないもの見てたんだ。

葬儀会社で働いていたころ、あまり好きではない同期がいた。大学生の頃から知り合いで、ルームシェアしていたこともあるから立派な「友達」だと言えると思う。

それでも、私はどこかで引っかかっていた。彼女の言動、行動、大げさにあげつらうことではないのだけど、だからこそ魚の小骨が喉につかえるような違和感が接するごとにつのっていって、ある日、我慢できなくなった。

私の些細な決別は、彼女のSNSを一切遮断したこと

イライラするくらいなら見なきゃいいのに、一緒に仕事をした日、ご飯を食べた日の夜などは、TwitterやFacebookを開いて彼女の発言をチェックするのがお決まりのスタイルになっていたのだ。

やたらとポエムちっくな言葉選びに嫌悪しながら、自分のことが書かれていやしないか、悪口を書かれていやしないかと、半ばびくびくしながら覗いていた。振り返ってみれば、何を不毛なことをしてたんだろうと心底思う。

私、ずっと見たくないもの見てたんだ。

最近も、心を直撃するようなツイートを見てしまった。

大切な人が公の場に投稿していたその言葉を、その画像を、見た瞬間は空いた口が塞がらなくて、まさに呆然として、無になった。妙に冷静で、「心が折れる」ってこういう瞬間を言うんだろう、と頭の隅で考えていたくらい。

そっと、フォローを外した。そして、画面を閉じた。

Twitterを日常的に見なくなって随分経つ。InstagramやFacebookやTik Tokはアプリを消した日から一切見ていない。テレビや新聞や雑誌のニュースも最低限の摂取だ。実に健やかな精神状態が保たれている。

SNSは取り扱い注意

痛感していたはずだったのに、肝に銘じていたはずだったのに、どうしてあの朝に限って、ますTwitterを見てしまったんだろう。

もうしばらく、私はTwitterを主とするSNSから距離を置く。たくさんの経験と出会いをくれたツールだけど、いまの私にとっては毒が強すぎるから、もう少し、もう少しだけ。アカウントまで消す勇気は、ないけれど。

とっても落ち込んでる文章に読めてしまうかもしれないが、実は私、意外と結構元気なのだ。ぐぐっと自分を責めてしまったけれど、話を聞いて受け止めて共感して、次のビジョンを見せてくれる大切な人がいるから。何をされても何を言われてもどれだけ否定されても、ぜんぜん大丈夫だって思える。

私だけは私の気持ちを一番に理解して、認めて、受け入れてあげられる。誰にもコントロールされないし、自分の価値を貶めさせない。大丈夫、大丈夫って思いながら歩いていく。

いざとなったら帰れる場所がある。そうだ、私にはある。大切な人、大切な場所。そしてこれからも、自分の見たいものだけを見て可愛がりながら生きていく。

エゴかもしれない。自分勝手かもしれない。でも私が笑顔でいなきゃ残念がる人たちがたくさんいてくれるから。だから胸張って背筋伸ばして、笑顔でいるんだ。

ごめんね。ありがとう。


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