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「すみません」と「ありがとう」

私が暮らすアパートは古い。

築何年かもまともに聞かずに入居を決めた。駅から徒歩1分で、周りにはスーパーやコンビニや本屋や小学校やミスドがあって、お年寄りも子どもも均等にいて暮らしやすいイメージを持ったのが決め手だった。

私が暮らすアパートにはとくに、家族が多い。

朝7時や8時くらいになると、薄い壁、そして窓のすき間から賑やかな声が聞こえてくる。

「◯◯持ったの~!?」
「もう行くよ、ほらほら!」
「キャッキャ!キャッキャ!(子どもは、とにかく笑う)」

実際に家族たちと顔を合わせたことは少ない。こちらはいつ働いてもいい自由業なので、だいたい上のような朝の喧騒をアラームにようやく起き出すからだ。こちらがエンジンONになった時にはもう、彼・彼女たちは元気に幼稚園や小学校や職場に行ってしまっている。

ある日、たまたま夕方くらいにスーパーへ買物に出かけた帰り、共用玄関でばったり家族と出くわしたことがあった。

私とそんなに変わらないくらいの年頃にみえるお母さんと、小さな女の子、男の子。ふたりとも2~3歳くらいだろうか。買い物ついでに近所の公園で散歩でも、と考えているような雰囲気だった。

これから外へ遊びに行ける嬉しさで、子どもたちはまともに周囲に気を配れていない。とつぜん外から共用玄関へ入ってきた私に気づかず、もう少しで身体がぶつかるところだった。

「あ!すみません!」

すんでのところで衝突を免れた瞬間に、お母さんから声をかけられる。「ほら、ここは人が通るところなの、ちゃんと周りを見てね」とふたりの子どもに諭しながら、ごめんなさいねと私にも気をかけてくれる。

「いえいえ、ありがとうございます」

とっさに私はそう言って、お愛想に子どもたちに手をふり、お母さんに会釈をしてから部屋へ戻るため階段に足をかけた。

すみませんと、ありがとう。

たったこれだけのやりとりだけれど、随分と、久しぶりな気がした。

「すみません」「ありがとう」……なんでもないやりとり、ふとした言葉の掛け合いが、知らず知らずに激減してしまっている気がしてならない(そもそも私の「ありがとう」は使いどころがおかしかった気がする。「いいんですよ」とかだよな、普通は)。

こちらもつい先日の話だ。銀行のATMにお金を下ろしに行こうと行内のエレベーターに乗ったときも、先客の男性に「銀行ですか?」と声をかけられ、親切にもその階数ボタンを押してもらった。

「すみません、ありがとうございます」
「いえいえ」

コロナ禍になる前は、こういった「ふと発生する赤の他人とのやりとり」が死ぬほど苦手だったことを思い出す。

ちょっと身体がぶつかってしまった時、エレベーター内での会話、気さくなレジのおばさんとの世間話……できれば、そのすべてを避けて通りたくて、身を隠すように生活していた。別に何もやましいことなどないのだけれど。

それなのに、なぜか最近は得意になっているのだ。いや、得意になっているのとは違うかもしれない。「平気になっている」「なんでもないことになっている」が近い。

対面で人とコミュニケーションする機会が極端に減ると、取るに足らないやりとりでも貴重に思えてくる。どんなに人との会話が苦手な人でも、外界との交流を一切シャットアウトされたら気が狂ってしまうだろう。刑務所を満期で出所した元犯罪者がシャバに出たときと同じような心境だろうか(絶対に違うし、映画の影響が強すぎる)。

自然発生的なコミュニケーションを愛したい。

言いたくて言う「すいません」と「ありがとう」は、人の本来の温かさを交換できる媒介物のような役割があるのだと思う。


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