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朗読のあとがき

自分の書いたエッセイを朗読した。

「なんか『やっちまった』って声だったね」と恋人から感想をもらった。お弁当を作ってもらっているエッセイを読んだものを聞いてくれたそうだ。まぁ実際あれは読んでいて苦しく感じる部分もあった。

あとは、ちょっとした誤字や読んでいてテンポの悪い部分を感じた。やはり一度声に出すというのは、大切なプロセスなのかもしれない。音の響きや音韻やリズムは、読むときの調子を整えてくれる。

例えば音楽でも韻を踏んでいたり、印象的なメロディを繰り返したりして独自の世界を作り上げる。聞いたことのある曲だ、と二回目には解る曲もある。それから、ラップのようにリズムに合わせて言葉を紡ぐものもあるし、短歌はある程度決まったリズムがあり読んでいて心地がいい。

そういう心地の良さは、エッセイで表現できるのだろうかと試みたのが朗読である。

以前、友人の話を書いたときに「少し印象と違うな」と思ったことがあった。文字にするとキツい印象を与えるが、言い方はもう少し柔らかく信頼さえ感じるものだった。しかし、エッセイでそれを表現するにはまだまだ技量が足りない。

自分がどのように感じたのかを表現するにあたって、ただ文字にするだけでなくどういった温度感で読むのか。感情を込めるとは、どういうことか。人に聞かせるとして、どこにどう力を入れるのか。そういうことをとりあえず試してみたかった。

大学生の時、朗読の講義を取ったことがある。教科書を読む、というただそれだけの講義で受講者は四人だけ。先生は元々小学校の教員をしていて、今は朗読会にも参加している方だった。

「近くのものは低い声で、遠くものもは高い声で。あとは、間を大切にしてください」というようなことを言っていた。普段早口になってしまう私は、読点や句点できちんと止まるよう、指導を受けた。

「特に虫のなく声は、例えば相手がお子さんなら『リーン!』と大きめの声で表現してみてください」

その時に鳴いていたのは鈴虫だったが、鈴虫がそんな大きな声で鳴くことはない。また、先生は「と、言った」というときの「と」と「言った」の間をすごく大切にしていた。「と言った」とまとめるのではなく「と、言った」ときちんと分けることが大切らしい。それは他人の朗読を聞いてみてすぐに分かった。朗読は、演じるのとは違う。読み聞かせ、伝えることが大切だった。何より、相手にはカギカッコが見えない。男性も女性も、少年も少女も、虫も魚も、自由に喋る世界では「今話しているのがセリフだった」と理解してもらうための間がある方が親切だ。

そういったことを意識して、朗読をしてみたのだが、どうにも個人の感情が入ってしまう。それがいい事なのかどうなのか、あまり良くは解らない。私にとってお弁当を作ってもらうエピソードは、辛い話だった。母の努力より勝るものは、そのへんで買える弁当であり、祖母や恋人の作る料理なのだから。それは、自分にも重なる部分がある。努力しても努力しても上がいる。

最近はその努力さえ、他の人が頑張っている様子を見て一時的に触発されては筆を置く日々だ。私は恋人のお弁当を美味しく感じる日々と、母の面影を重ね合わせた。そしてそれは、母への気遣いを言葉で無下にしてしまったような気持ちでもある。

やっちまったような声、というところに理由を求めるのなら文字にしてしまったことへの後悔かもしれない。その後悔が、声を重くし、暗く重たい声へと私を引きずり込んだ。そんな朗読だった。

一応、投稿した先は「エッセイも読んでください」というラジオだ。ただ、ここでエッセイを朗読しまうと特にnoteまできてエッセイを読むこともないかもしれない。

ただ、今の所、このラジオを聞いてくださっている方の殆どがnoteユーザーだと思っている。一応、この下にラジオの音源を貼っておくので聞いてみてほしい。私はまだ恥ずかしくて聞き直せていないが、文字とはまた違った感想を抱いていただければ幸いである。

ここまで読んでいただいてありがとうございました。 感想なども、お待ちしています。SNSでシェアしていただけると、大変嬉しいです。