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出たなジジイ! と叫びたい

ロラン・バルトという男がいる。

私にとって彼は「エッセイとは何か」という本の参考文献として出てきた「ロラン・バルトによるロラン・バルト」という本の著者でしかない。エッセイの中でも質の良いものが並ぶ中で、4800円もするクソ高い本を書いた男である。

それがどうにも有名人らしいのだ。エクリチュールの零度というのが著名な本らしく、同時に彼を良くも悪くも有名にしてしまったらしい。とはいえ、ロラン・バルトという男はとにかくひねくれ者らしく、自伝のエッセイを200個に分け、それをタイトルのアルファベット順に並べ直して一冊にするという自分のことを知ってほしいのか知らないでほしいのか分からない一冊に仕上がっていた。内容も、原稿用紙二枚分のものもあれば原稿用紙半分くらいのものもあり「メモから日記、ちょっと眺めの随筆までを取り揃えました」とヴィレッジヴァンガードでタグが貼られそうな雑記である。

そしてこの男「文章」というものにおいてはかなりのキーパーソンらしく、文章読本的な本を読むと割と出てくる。エクリチュールの零度の名前とともに出てくる。

その度に「この人、こうやって引用されんのめちゃくちゃ嫌だったのかな」と思ったりする。文章の柔らかくて繊細な部分に、エクリチュールと付けてさらにそこの零度という点を探したのに、人は「ロラン・バルトのエクリチュールの零度」という線でそれを知る。それでは、エクリチュールも零度も感じられず更にそこに自分の名前が乗ることによってエクリチュールから遠ざかってしまうのを感じていたのかもしれない。

ロラン・バルトによるロラン・バルトを読んで思うのは「この人めちゃくちゃ頭いいな」ということである。すごく抽象的な話を具体的なサイズに落とし込んで自分の頭の中で練り回して、更にそれを文字にできる人だ。尊敬する。

しかし逆にそれ以上はよく分からない。かなりハードルの高いパズルに手を出してしまったように思う。ルービックキューブを手にしたときはこんな気持ちだった。未だに解くことができない。知恵の輪はいくつか解けたがルービックキューブはまだ解けない。

私が書くエッセイは「カフェで隣りにいた学生二人が勉強会してたけどガチで勉強してたな」とかなのに彼は"〈切り離す〉ことは、古典芸術におけるきわめて重要な行為である"(ロラン・バルト,p90)と言い始める。レベルの違いよ。

でも、私の文章にもエクリチュールはあり、ロラン・バルトの文章にもエクリチュールはある。しかし、エクリチュールが何かを知るにはエクリチュールの零度を読み、更に自分でエクリチュールの零度に触れなくてはならない。

多分海の中にあるすごく冷たい、海流の変わる場所みたいな文章の温度が変わり「あぁ、今、温度変わったな」と思える場所がどこかにあるらしいのだ。

それはそれとして、この男、自分の文章を分割して並べ直したのは多分「ここまでやってなお手に取れるものがあるか」という疑問というか、好奇心のように思える。少なくとも読み手への挑戦ではない。推理小説を書いたわけではなく、単純に文章というものがあって、誰について書いたかも分かっていて、分割されているとは言えおよそ書いた年代も分かる中で、ランダムではなく規則的にアルファベット順に並べ直してなお残るものは何か。そんな問いかけに感じる。

時系列や文章の流れから読み取れるものがあるとして、では、時系列のほうを取り払ってしまったら何が残るのか。ちぐはぐで矛盾した書物だけか、何者かが勝手に解釈をした引用か。挑戦とするなら「この文章がなにかに使えるのならやってみるが良い」という半ば投げやりなものに感じる。結果として「エッセイとは何か」という本に掲載されてしまい、私の手元に来て「は? 何だこの本、めちゃくちゃじゃねぇか」と思われている。

しかし、この本を読んでから他の本を読むと無性に「ロラン・バルト」という人物に出会うようになるのだ。

その時は「あっ、お前!」と叫びたくなる。影を捕まえて「おい、あの本なんなんだよ。エクリチュール? 知らん、そうじゃなくてあの本はなんなんだよ! おっさん! おい!」と問い詰めたくなる。

「多分有名で偉い人なんだろ! でも、今俺はそれを知らん! それを知らんタイミングでしか読めない話があるはずなんだ!」

しかしそのときにはもう、ロラン・バルトは姿を消している。というより、元々引用なのでそこにはいないのだ。

「昔々、あるところに、ロラン・バルトという男がおりました」と、本が語ったとき私は椅子から立ち上がり「出たなジジイ!」と声を荒げる変な子である。全然盛り上がるパートじゃないところでヒートアップしている。しかし、私には、そこが重要なのだ。

ロラン・バルトという、有名になりすぎてへそを曲げて意味不明なエッセイをクソ高い値段で売り出した男、ロラン・バルトは多分文学部とかにいたら全然違う印象であろう男だ。ロラン・バルト。他に思い当たるのは、カントとかか。フロイトか。この辺のじいさんも余計なことばっかりして基礎を作ったけど、ロラン・バルトも多分、余計なことばっかりして基礎を作ったのだろう。

だが知らん。なんだ、意味不明な本作りやがって。おかげでこっちは「カフェにいたガチで勉強会してた学生」について書くのがなんだか稚拙みたいに感じてしまっているんだ。

しかも、私が生まれる前に弔われている! 続報が出ることは今後ない。なんでみんなこの世を去っているんだ。礎を積み上げたもの皆! 私よりはるか昔に好き勝手やって! なんか生み出して! そして天に召されている!

困る!

もちろん、私はフランス語がわからないのでご存命であられたとてロラン・バルト氏から引き出せる情報など一個もない。しかしそれでも、時間が止まってしまっているというのは悲しい。もう、本を読むことでしか彼の時間を動かすことはできない。

彼を理解するには更に沢山の本を読まなくてはならない。とても困る。私は今、それどころではないのだ。体調が激悪くて、早いこと治さなくてはいけない。焦ってもいけないが、一歩ずつ積み上げていくには遅すぎる気がする。

頭の良すぎる男、ロラン・バルト。頭の回転は並み以下の男、キッチンタイマー。決して交わることのない二人が、本を通して時空を通じ、なんだか知らないが一方的に怒っている。

マジで何なんだ。マジで何なんだこの本。余白が大きすぎるだろ。

良ければ一度、手にとって読んでみてほしい。そして一度で分かったら、あなたもそっち側の人間だ。胸ぐらを掴まれる覚悟は良いか。

しかし、向こうもまたこちらに殴りかかってくる。知力、それは力。最終的に力づくで分からせてくるのだ。

やめてほしい。

私はただ、エッセイが書きたいだけなのだ。

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