溶けた奴らとGlenfiddich

 アリスはバーの片隅で身じろぎひとつしない客をじっと見つめた。

 あれは客というべきなのか……

 何故ならば、ここは政府管轄の地図から外れた深海バー。癖のある連中が政府の目を逃れて酒を飲みに来る場所。

 そしてバーの片隅のボックス席一つを占領するそれはスイッチの切れたアンドロイド。アンドロイドは酒を飲まない。それにボディが半分腐って溶けかかっている。そんなアンドロイドが数少ないボックス席をひとつ占有して半年以上がたつ。

 だが約束は約束。

 棚にはGlenfiddichの瓶が置かれている。もちろん本物だ。

 アリスは黙ってグラスを磨く仕事に戻った。

 半年とちょっと前、サキは静かにこの店にやって来た。ギイという蝶番のきしみ音に隠れるように、灰色のコートを着込み頭からすっぽりとフードを被っていた。

 女性ということはわかったが、頭上のスポットライトがフードの影を作り、顔の判別がつかなかった。

 アリスの目に仕込まれた高性能レンズであれば、わずかな光で顔を判別することはできるが、そんなことはしない。顔を見られたくない客の顔は見ない。それがバーテンダーとしての心得。

「いらっしゃい。お一人?」

 女は黙ってカウンター席に落ち着くと下を向いたまま呟いた。

「助けてくれるか?」

 アリスは空中に表示したメニューを消すと女をじっと見詰めた。

「お酒を飲みに来た訳ではなさそうね」

「これで助けてくれるんだろ?」

 女は手荷物から一本のウィスキーを取り出しカウンターに置いた。埃をかぶり薄汚れた瓶には年代を感じさせるラベルが貼られ「Glenfiddich 100」と印刷されているのがかろうじて読み取れた。じっとアリスを見つめる客の頬は、腐敗に崩れかけていた。

 アリスの右目の周りにも青い大きなあざがある。だがそれは右目のグラビティセンサーを使う事によって、皮膚素材が変質してしまったためである。だが、この客のそれは明らかに腐敗であった。

「あたしはサキ。あたしをアテナスから守ってくれ」

「アテナスから?」

 アテナスは政府アシストコンピュータで、世界中の人間とアンドロイド、そしてあらゆる機器の記録を取っている。アテナスの目をかいくぐって行動するのはかなり難しい。

 だが、アテナスにも管理外区域がある。アリスが働く深海バー「クラム」もアテナスの目が届かない場所の一つである。だがそれはアテナスに目こぼしされているに過ぎない。アテナスが本気で探して見つけられない場所など地球上に存在しない。あるとすればコアくらいだ。

 アリスは瓶を脇に退けると客をじっと見た。

「あなたの事知ってる。科学アカデミーから脱走したプロトタイプでしょう? よく脱走できたわね」

「あたしはほとんど監視されていなかった。なぜなら時限装置がついているから、逃げ出したところでいづれ動けなくなる」

 アリスはサキの崩れた頬を見た。なるほど。

「それが分かっていて、何で脱走なんかしたの?」

「あたしは廃棄されたくない。あたしが果たして来た今までの実験結果を後世に伝えていく義務があるから」

「それを決めるのは科学アカデミー顧問のアテナスなんじゃないの?」

 サキは拳でカウンターを叩いた。拳から小さな皮膚の破片がカウンターにこぼれ落ちた。

「ちがう。やつらはあたしを、意志を伝承できるアンドロイドとして開発したんだ。分かるか? データコピーではなく、意志の伝承だ。なのにそれをさせないのは間違っている」

「だって、バックアップがあるんでしょう」

「バックアップはデータだ。あたしの意志ではない。お前ならそれが分かると思ったからここへきたんだ」

 もちろんアリスにはそれが分かっていた。意志とはプログラムでもデータでもない。フィールドなのだ。意識を持つ者だけが持つ。それはエネルギー場であり、重力場である。アリスの右目は重力場としてそのフィールドを見ることができる。そしてそのフィールドの動きを見れば、その先にどんな未来が待っているかもある程度予想がついた。

 揺らいでいる。サキのフィールドはボディに合わせて崩壊し始めていた。

「言いたいことは分かる。でも今わたしはただのバーテン。政府にあまり関わりたくないし、ここへ来るお客さんもまたそう思っている。アテナスに楯突くような真似はしたくない」

「助けてくれるなら、こいつを定期的に送らせよう。こいつの価値は分かってるはずだ」

 アリスはGlenfiddichをサキの方へと押しやった。帰れという意味である。

 サキはアリスの腕を掴んだ。

「追い出すつもりならやったらいい。だが、あたしはここから動かない」

 サキの体から高周波の電磁波が漏れ始めた。ボディの内側でエネルギーを圧縮しているのだ。

「あたしには高濃度LIB電池が搭載されている。あたしがつくるエネルギーフィールドはかなり大きいはずだ。もしあんたがあたしを追い出すのなら、一度にエネルギー放出して、ここにあたしの意志をすべて刻みつけていくことにする」

 フィールドは場所に刻み付けることができる。アリスもそれを知っていた。そんな哀れなフィールドをいくつも目にしてきた。

「よして。わかったから」

 サキから漏れる電磁波レベルが徐々に下がっていった。

「ひとつだけ当てがある。前に一度この店に来た客よ。だが、こちらから連絡は取れないし、また来るかどうかも分からないけど待てる?」

「この身体が朽ちるまで待つさ」

 サキは奥のボックス席に移動すると目を閉じてスリープモードに入った。

「いい忘れたけど、そいつは」

 アリスはもう聞いていないと分かっていながら呟いた。

「クズ野郎よ」


 男が店に現れたのはそれから二週間後のことだった。

「美味そうな酒の匂いがするわ」

 男はそういってふらふらと店に入って来た。七色に染め上げた髪をだらしなく伸ばしている。遺伝子操作のお陰で、背は高く体格もよい。それに見合う甘いマスクも持っていたが、いつでもネットラックでラリっていて表情に締まりがない。服装も同じくらい締まりがない。

「ビトー。今度は一体誰とメルトしてるの?」

 ビトーはどこか女性的な笑みを浮かべながらカウンター席に着いた。

「メルトなんて言わないで。私たち溶け合っているの。それってとても素敵よ。ねえ、あなた。アタシと遊ばない? 文字通り身も心も溶け合うの。ビトーったらすごいのよ」

 そしてふふふと卑猥に笑った。

 ビトー自身クズ野郎だが、ビトーが選ぶ人間もまたクズだ。クズはクズを呼ぶ。

「私はアンドロイド。残念ながらあなたの遊び相手にはなれないわ」

「あら、残念。あなた私の好みよ。その汚らしい痣さえなければね」

 そう言ってビトーは声高に笑った。

「それはどうも。それより、そっちの女性があなたと遊びたいそうよ」

 ビトーの背後にはいつの間に近づいたのか、顔の崩れた女が立っていた。二週間振りに起動したサキだった。

「お前、メルターなのか」

 二週間の間にまた腐敗は進んでいた。皮膚は黒ずみ剥がれ落ちた瞼の奥で眼球が動く。その気味の悪い姿を見てビトーの声が上ずった。

「何よあんた」

「あたしはサキ。訳あってその身体が必要なの。だからその身体をあたしに貸して」

「あんた、顔が腐ってるじゃない。何の病気? どっちにしてもごめんこうむるわ」

「そうはいかない。あたしにはもう時間がない。どうしても貸してもらうわ」

 ビトーの顔に戸惑いの色が広がる。それはそうだろう。唐突に身体をよこせと言われても理解出来るはずもない。

 そんなことにはお構いもなく、サキはビトーの胸ぐらを掴む。

「いいからよこしなよ」

「嫌よ。冗談じゃない。何言ってるのこのくそ女。頭がいかれてる。大体この身体はアタシが来月まで契約してるんだ。こいつとメルトしたかったら、予約を入れるんだね」

「メルトなんかどうだっていい。よこせと言ってるんだ。それとも痛い目を見たいのかい」

 突如ビトーの顔つきが一瞬厳しく変わり、動作からも女性らしさがなくなった。そして次の瞬間には不敵な笑みを浮かべていた。

「おいおい、俺の身体を傷つけてもらっちゃ困るな。大事な商売道具だ。特にこコイツはな」

 そう言って股間を掴みガサツに笑った。

「それに、この女と俺は契約している。ただでお前を乗っけるつもりはないぜ」

「ポイントがあれば乗せてくれるの?」

 ビトーは値踏みする目でサキを見た。そしてサキの顔をじっと見つめ、何かを思いついたように頷いた。

「いいぜ」

「ちょっと、ビトー。私との契約はどなるのさ」

 急に女が前面に出て来たため、ビトーの顔がぐにゃぐにゃと歪んだ。どちらの性格を出していいか身体が混乱しているのだ。

「急に出て来るな。頬の肉がつっちまう」

「何よ、あんたが急に出て来たんでしょ」

「俺はこの身体のオーナーだ。いいから黙ってろ」

 ビトーは女を叱り飛ばすと続けた。

「先ずは百万ポイント貰おうか」

「百万ポイントね。いいわ、何とかする」

「おい、本当かよ。そいつはすげえや。あと、ここからが大事なところだ。いいかネエちゃんよく聞けよ。アテナスからメルト許可を取ってきな」

 サキの顔が歪んだ。

「おい、どうしたんだ。許可をもらって来るだけでいいんだ。簡単だろ。なんならポイントの方は半額にしてやってもいいぜ」

 ビトーにはにやにやと笑いながらサキを見ていた。

「それは、無理だ」

 先ほどの勢いはもうどこにもない。

 ビトーが嫌味ったらしく笑う。

「じゃあ、諦めるんだな。おっと、力づくで奪おうなんてしない方がいいぜ。サツがお前を探していたみたいだしな」

 ビトーの見下した態度をサキはどうすることもできず、ただ黙って立ち尽くすしかなかった。

 アリスがGlenfiddichのボトルをカウンターにどんと置いた。

 ビトーの目が見開かれた。

「これでどう?」

「悪くはない。悪くはないがなあ。こいつはアンドロイドだろう。今までアンドロイドとメルトしたやつはいない。誰もやり方がわからないし、どうかなあ」

 ビトーが言葉を濁す。心惹かれているのは見ればわかる。だが足元を見ようとしているのがはっきりわかる態度だ。

「じゃあ、こうしよう。俺はこいつとメルトする。そしてアリス。あんたともメルトする。アンドロイド女二人とハーレムはどんな気分なんだろうな」

 ビトーがいやらしく笑う。

「冗談じゃない。私を巻き込まないで」

 ビトーの顔から表情が消えた。興味を失ったのだろう。興味を失えば相手のことなど何とも思わない男だ。

「帰るか」

 ビトーが席を立った。

「うまくいったら、もう一本渡すわ」

 サキがアリスを見ながら言う。

「こいつがいるのは、困る」

 ビトーは満面の笑みだ。

「あと二本、いや三本だ」

「ああ、分かった」

 アリスが目で問う。大丈夫なのかと。

 サキは黙って頷いた。

「いいだろう。契約成立だ。アンドロイドとメルトってのも面白そうだしな」

「ちょっと、契約違反じゃない。アタシはどうなるの」

 ビトーとメルトしていた女が叫んだ。

「知るか。お前みたいなクズ女と本物のウィスキーとを比較できるか。失せろ」

 徐々に女の影は薄れていった。追い出されたようだ。

「さて、どうすればいいんだ?」

「人間とアンドロイドは精神の構成が違うから。どう? あたしの精神はビトーとメルトできそう?」

 アリスは右目のグラビティセンサーにエネルギーを集中して二人のフィールドを比較してみた。サキが言った通りその構造は全く違った。

「駄目かもしれない」

「おいおい、冗談じゃない。それじゃ女を追い出した意味がない。できてもできなくても酒は貰うからな」

「ちょっと待って。一旦入れ替わりをして、ビトーが戻ればメルトできるかもしれない。それぞれ空の身体になら入れるはずだし、ビトーは自分の身体に戻るだけだから比較的簡単にいくと思う」

「おいおい。俺にこの腐れボディに入れっていうのか? だったらもう一本付けてもらおうか。それが嫌なら止めだ」

「ちょっとがめつすぎない?」

 アリスの忠告をサキが止めた。もう一本渡すというのだ。一体科学アカデミーはどれほどの資産を隠し持っているというのか。

 ビトーは唐突にGlenfiddichのボトルを掴むと封を切り、この希少なウィスキーを直接瓶からあおった。顔には希少なウィスキーを独り占めにしている満足感と欲望に飲まれた醜い笑みが浮かんでいた。

「くう。きつい。だがこいつは本物だ。ネットラックなんか比較にならねえ」

 そしてまたウィスキーをあおった。

 準備が整った頃にはビトーはぐでんぐでんに酔っ払っていた。

 サキは不審気な視線を向けている。

「いいの? こんな酔わせてしまって」

「その方が都合がいい。人間の意識は酔うほどに曖昧に、そして柔らかくなる。おい、ビトー。聞こえる? 今からあなたは完全意識に融合するのよ。そこでサキを待って。分かる?」

 酔いつぶれる寸前のビトーは、焦点の合わない視線を向けると、破顔してそのまま床に崩れ落ちた。

 クズめ。

「サキ。BNI(ブレインネットインターフェース)経由でビトーの身体に飛び込んで。すぐにビトーが戻って来る。その前に飛び込まないとメルトできない」

「間に合わなかったらどうなるの?」

「間に合わなければ入れないだけ。ただ、タイミングが悪いと、フィールドは高エネルギーだからこの辺に大きなクレーターができるかもね」

「悪くないわね」

 サキはボックス席に深く身を埋めると目を瞑った。

「ビトーが戻って来たら、このボディは脆くなっているから気をつけてと伝えて」

 アリスが何かを言い返す前に、サキの意識はBNIを通じてビトーの身体に飛び混んでいた。もとよりビトーのBNIは、他人とのメルト、つまり意識融合をするために改造をしてあった。そのため、サキの意識はウィスキーで間口が広がっている肉体に容易に飛び込み定着することができた。

 サキがビトーに飛び込んで数分後、サキのボディがわずかに軋んだ。ビトーが飛び込んだのであろう。これでお互いに意識の型を認識できたはずだ。あとはビトーが自分の身体に戻ればメルトは完了だ。

 だが、ビトーの身体はウィスキーで泥酔状態だ。アルコールが抜けるまではどうにもならない。アリスはビトーをボックス席に運ぶとブランケットをかけてやった。そして一人カウンターのスツールに腰掛けた。他に客はいない。窓の外には暗い海がどこまでも続いていた。

 何時間こうしていたろうか。ビトーが唸り声をあげた。

「水が欲しい」

 アリスが水を渡すとビトーは一気に飲み干してからむせた。

「これが水か。美味いな」

「メルトはできたの?」

 ビトーが満足気に笑った。人類と機械の初融合だ。お互いに欲するものも、理解の仕方もまるで違う。その違いをたった今二人は認識したはずだ。どれほどの違いがあるのかアリスには見当もつかないが、これを機にお互いはもっと歩み寄れるかもしれない。

「これは空腹という状態か?」

 ビトーはハムエッグを注文し、物珍しそうに食べ終えると一息ついたようだ。

「人間の感覚というのは随分と違うものだな。非線形というか、フラクタルでもない。曖昧すぎて表現できない。それでいてなぜか方針が確定している。何を根拠に方針決定しているのか理解できない。なんとも頼りない」

 ビトーは動かないサキのボディを返り見た。

「ああ、本当に頼りない」

 そしてスッキリとした顔で笑った。

「やらなきゃいけない事がたくさんある。しばらくあれを預かってくれるだろ?」

「Glenfiddichが届いている間はね」

「さよなら、サキ」

 ビトーは一瞬だけ立ち止まり、そして店を出て行った。

 まるでビトーが出ていくのに反応したかのように、サキがぴくりと反応した。崩壊が進んでいるのかとも思ったが、あれは明らかな反応であった。どういう事なのか。ビトーの意識はもうサキとメルトしているのであのボディは空のはず。

 もしかしたらとアリスはサキのボディを右目で重力場計測してみた。

 恐れていたことが起きていた。

 そこには見覚えのあるフィールドパタンが現れていた。ビトーのフィールドだ。ビトーはサキのボディから出られなくてまだそこにいるのだ。

「ビトー。返事をして」

 アリスはあらゆる通信チャネルからサキの中のビトーに呼びかけてみた。だが帰って来るのは通信拒否のエラーだけであった。

「サキ。あいつ」

 サキのボディは微動だにしない。サキはあらゆる通信チャネルを閉じ、動作モードをオフにしてしまった。マシンの意識構造を知らない人間がそれをオンにすることは不可能だ。つまりビトーは監獄に繋がれたに等しい。初の人間と機械の意識融合は行われてなどいなかった。お互いは未だ理解しあえていない。

 すでにビトーの位置情報は失われていた。ネットワークを遮断しているのだろう。人間なら容易い。

 それから半年。三本目のGlenfiddichが届いた。サキは自由を謳歌しているようだ。そしてビトーは囚われ人のまま。クズにはいい薬だ。

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