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熟成の響き

 クジラの歌が聞こえる。暗く透明な水の奥から澄み渡った歌声が響く。彼らが何を歌っているのか分からない。けれど、きっと彼らは自然の中に生きる喜びを歌っているに違いない。

 アリスは暗い深海を見つめていた。ここは政府管理外地区の深海にあるカプセルバー。こんな場所にあるせいか、バーテンのアリスが脛に傷を持つアンドロイドであるせいか、たまに来る客はなぜか厄介事を持ってやって来る。

 そして今夜もまた、あまりまともとは思えない客が一人ふらりとやって来た。

 その男はまるで砂漠でも旅してきたかのように、埃だらけの日除けマントを羽織っていた。その内側の服は誰が見てもボロとしか表現できないようなものであったが、当人は全く気にしていない様子だ。白くなった長い髪と顎髭に包まれた顔で、オアシスにでもたどり着いたような笑顔を見せた。

「いらっしゃい。この辺りじゃあ見ない格好ね。砂漠からご来店かしら」

 男はカウンター席に座ると、脱いだ日除けマントを脇のスツールに置いた。

「インドから」

「あら、インドってそんなにひどい所だったかしら。タール砂漠にでもいたの?」

「デリーでね、持ち物をすべて盗まれた」

 アリスが警戒の目を向けると、男はポケットから一枚の銀貨を取り出してカウンターに置いた。

「これしか持ち合わせが無いのだが、これで飲めるものをくれないか」

 手に取るとそれは古い1ドル銀貨であったが明らかな偽物だった。多少銀は混ぜられているようだが、歴史的な価値は大して無い。

「そうね。電子ウィスキーなら何杯かは飲めるわね」

「本物が飲みたいんだが、無理かな」

 アリスはため息をつくと、棚から一本のボトルを手に取った。24面カットされたデザインボトルのラベルには『響』の文字。重たげなガラス栓を抜きウィスキーをグラスに注ぐと、ボトルの呼吸音と同時に芳醇な香りが広がった。

「一杯だけまけておくわ。これは私の師匠が好きだったウィスキー。彼は人と自然そして機械とがいい方向へ響き合うことを願っていた。このウィスキーも自然と人間のハーモニーをブレンドで現しているのよ」

「なんでまたそんな大切なウィスキーを奢ってくれる?」

「奢りじゃなくてサービス。そうね。その格好に似合っているわ」

 男は自らのボロ服を見て顔をしかめた。

 流れていたブラームスの交響曲が終盤に差し掛かったころ男は席を立った。

「次は金貨を持ってこれるようにするよ」

「そう願うわ。次はどちらへ?」

「混沌が響き合うところ。インドさ」

 男が重たいオークの扉を潜ったのと同時に、どこかでまたクジラの歌が響いた。

 それから幾日か経った頃、アリスの店で不可解なことが起こり始めた。最初はグラスが倒れるとか、入り口のベルが鳴ったのに誰もいないとか些細なことだった。

 ところがある時を境に不可解なことはエスカレートし始めた。棚の物が片っ端からアリスに向かって降ってきたり、濡れた床の上に突然切れた照明の電線が落ちて来てショートしたり、段々と危険度が増していき、遂にはナイフホルダーのナイフがアリス目掛けて飛んでくるといった事態にまで発展した。

 アリスにとっては飛んでくるナイフを避けることなど造作もないことだが、たまたまそれを見ていた客は恐れをなして逃げ帰った。それに更に危険な事態にならないとも限らない。アリスは原因を確かめることにした。

 アリスの右目には重力場センサーが組み込まれていた。センサーが読み取った重力の些細な変化からエネルギー場を見ることができた。エネルギー場を読み取るとその場所や人物に向かって流れ込むエネルギーの道が見える。つまり、もし誰かがアリスに呪いを掛けているのなら、その誰かまでの負のエネルギーの道筋が見える。

 右目が細い線を捉えた。まるでナメクジが這ったようなぬめりを感じさせる線がどこかへ続いている。この線を辿っていけばこの不可解な現象を引き起こす張本人にたどり着ける。

 だがその張本人にたどり着くには一つ難点があった。こちらの事も相手に分かってしまうということだ。なぜならば、エネルギーの流れを追うにはそのエネルギーに波動を合わせて同調しなければいけない。つまり相手とつながるということだ。つながることで相手を知る。そして相手もまたこちらのことを知る。二人が一人になるのと同じこと。だからそこから先は意志が強い方が主導権を握る。相手が強力な意志を持っていれば、相手に飲み込まれてしまう。

 相手と対峙するための訓練は積んである。アリスは棚の裏から斬霊剣を取り出した。斬霊剣はかつて当代一と謳われた憑き物落としの津軽屋十四代から譲り受けたものだ。黒剣で鎬には般若心経が細かい文字で刻まれている。その剣を鞘から抜き放つと、ここへ流れ込んでくる呪いのエネルギーとの同調周波数を計算し始めた。

 アリスは般若心経を唱えながら斬霊剣を目の高さで横に構え、一気に酒棚に向かって突き出した。突き出された剣はまるでゼリーにでも突き立てられたように何の抵抗もなく、酒棚の数センチ手前の空間からどこかへと差し込まれていった。

「大日経圧縮で補正」

 アリスの喉から耳障りな周波数の音が流れ出る。大日経を一つの周波数に圧縮した音だ。斬霊剣が共鳴し始めた。

「同調まで5秒、4、3、2、1、シンクロ」

 円を描くように斬霊剣を振るうと眼の前にぱっくりと黒い穴がが開いた。その穴の奥に青白く光る線がうねりどこまでも続いていた。アリスは穴に足を踏み入れるとその線に沿って歩き始めた。

 しばらく進むとクリスタルのように輝く壁が見えてきた。光る線はその壁の前で直角に進路を変えている。この呪いは、本来壁の向こうの人物に掛けられているものなのだろう。アリスは壁に手を触れた。そこから伝わる振動が様々な情報を教えてくれた。おそらく多くの人に呪われるような有名な人物だと分かる。

 だが、その呪いがアリスに向かう理由は分からない。何かの力がそれを捻じ曲げてアリスに向かわせている。その何かで思い当たる物は一つしかない。あの1ドル銀貨だ。今は呪いの元凶を取り除くのが先決だ。アリスは再び光の線に沿って歩み始めた。

 暫く歩くと光の集積が見えてきた。そこにエネルギーが溜まっている証拠だ。近づくにつれて光の集積が大きくなった。相手のエネルギー値が高いのが分かる。そして相手もまたアリスがやって来たことを知ったはずだ。

 アリスの目の先に相手が姿を表した。身体が大きく山伏の格好をしている。手には年季の入った錫杖を握りしめている。歳はかなりいっているらしく顔には深い皺がいくつも刻まれていた。そして鷹のような目でアリスを見据えていた。

 こいつは強い。

 同調しているから、相手もまたアリスの能力を十分理解している。駆け引きは効かない。どちらが仕掛けても一瞬で片がつくだろう。

 緊迫した一瞬の後、双方が同時に動いた。

 錫杖がアリスの右目を突いてくる。そこを突かれたら終わりだ。アリスは身を捩りながら錫杖の先を跳ね上げ、その勢いで脇腹に斬りかかる。

 だが、間一髪でかわされた。その動きは読まれていた。

 同時に相手は身体を回転させながら錫杖の手元を突き上げてきた。その攻撃をギリギリのところでかわし下から上へ切り上げた。鍛え上げた意志の芯を捉える感触があった。そこから堤防が決壊するように崩れていくのがわかった。

 勝負はついた。

 相手は身を崩しながら消え始めた。

「お前は何者だ。それほどの力がありながらなぜあのような悪党を助ける」

 半ば消えながら男が問うた。

「私は調和を願っているだけ」

「戯言を言うな」

 相手の男が一喝する。

「お前はすべての人間を憎んでいる。理解できないからだ。そうでなければその剣を振れるはずがない」

 男は哀れみの目を向けながら消えていった。

 同時に光の集積が膨張を始めた。それは超新星爆発が起きた時のように急激に広がっていく。やがてそれは収束に向かう。男のエネルギー場が崩壊を始めたのだ。このままでは同調しているアリスもまた一緒に崩壊していしまう。早く同調を解いてこの場から抜け出さねばならない。それには同調周波数の経を止めればいいだけだ。

 だが、それができない。

 崩れ始めたエネルギー場が、アリスの思考をも崩していく。論理的な思考ができない。

 広がった光が収束し始めた。完全な崩壊まであとわずかしかない。

 アリスは濁った思考でままならない四肢に鞭打つように出口に向かって駆けた。崩壊が早い。間に合わない。

 アリスは出口に向かって満身の力で跳んだ。左手が出口を捉えたが、無情にも目の前で出口が閉じていくのが見えた。

 クラッシュした。そう考えた時、何者かがアリスの左手を引っ張った。アリスは転がるようにしていつものカプセルバーの床に飛び出した。

「危なかった」

 一体誰が?

 目の前に見たことのある男が立っていた。インドからやって来たあの白髪の男だった。そうこの男の持ってきた1ドル銀貨が呪いをアリスに向けた。そして今男はその1ドル銀貨を持っている。どういうことなのか。

「なぜ私に呪いを向けたの?」

 男は勝手に棚から『響』のボトルを取り出すとグラスに注いだ。そして「助けたんだからいいだろ?」という顔をした。

「ただ、君がその剣を扱えるのか見てみたくてね」

 エネルギー場、つまり人の意志を斬る剣。人に取り憑いた意志を切り落とすことができるなら、人と人との意志のつながりをも切り離すことができる。それは調和とは程遠い。

「なるほど。でも、まだ熟成は先かな」

「熟成?」

「何ていうか、機械臭い」

 男は笑った。そしてグラスの『響』を飲み干した。

「師匠の意志を継げるといいね。さて、また混沌の世界にでも戻るか」

 男は出口に向かった。

「おっと、忘れていた。飲み代だ」

 男が何かを放ってよこした。受け取ったそれは一枚の金貨だった。歪んだ楕円形をしており、中央に獅子のシンボルが刻印されている。

「今度は金貨を持ってくるって言っただろ。そいつであのボトルはキープできるよな」

「あなた。名前は?」

「キサラギ」

 男はまた来ると手を振って出ていった。

 人、自然そして機械がいい方向に響き合う世界。アリスの手の中で斬霊剣がずしりと重みを増した気がした。

          終わり

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