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紹興酒に関する文化的研究

数年前に紹興酒を専門に売っていた経験がある。その際に色々と趣味で調べていたのをここに書き留めておきたい。紹興酒の造りなど技術的な話はここでは置いておこう。醸造協会誌などを読んでもらうか、専門書も一応ある。

あまり情報がまとまっていない紹興酒の文化について触れておきたい。
まず飲む文化について、そして歴史についてだ。

紹興酒の飲酒文化について

紹興酒にザラメや干し梅を入れるのはいつからなのか

最もホットなトピックはこれだろう。ネットではさまざまな見解が出ている。
よくまとまっているのはこちらの記事
個人的にも紹興酒メーカーの方と話したときにザラメを入れるのは日本だけと聞いたことはある(その際に紹興の方も冬では燗をして飲むと聞いた)。ではなぜ入れるようになったのか。

満州の慣習が日本に伝わった説

これは下記の醸造協会誌への投稿を根拠とする。
坂本 隆之助「紹興酒釀造工場見學實記」『日本釀造協會雜誌』1936 年 31 巻 4 号 p. 316-318
この文章では、満州国において日本人が経営していた満州造酒株式会社で紹興酒の製造に成功したことを受けて簡単に中国内での紹興酒の現況を述べている。満州で紹興酒が製造できたことは山崎百治のおかげであるとしているのが面白ポイントだろう(山崎先生は有名な方)。
この中で紹興酒と氷砂糖について触れている。
曰く、満州では山東省からの移住者が多く山東系の老酒と清酒(高粱が原料)が多く飲まれ、満州でも製造されるようになったが醸造技術の問題で焦げくさい臭気が残ったためこの臭みを消すために氷砂糖が入れるようになり、それが満州では習慣化して紹興酒にも入れるようになった、というわけだ。

もともと満州では紹興酒を飲む文化はないが、日本人が増えるに従い紹興酒需要がでてきたとされる。

購買力の高い在満日本人という購買層が厚みを増す中で、日本酒のみならず、大陸浪漫を感じることができる、日本人向けの中国酒の需要が生じていた。

瀬尾光平「研究ノート:「満州」における中国酒醸造」『曠々満州 第003号 「もの食う満州」』2015年 満州研究会

当時の日本人にとって中国酒といえば紹興酒であった。
上記の瀬尾の研究ノートによれば、こうして満州で製造されるようになった紹興酒も、1937年の盧溝橋事件からの日中戦争の開始に伴い、紹興酒の禁輸措置が取られ、代替品として日本へ輸出されるようになったという。そして1939年には日本の紹興酒は満州製造のものに置き換わった。

以上から、満州国における氷砂糖を入れる慣習が、日本には中国酒と一緒に伝わったという可能性を指摘できる。ここで氷砂糖と呼ばれているものは氷の結晶と考えればザラメと捉えてもおかしくないだろう。

ただこれはやはり不完全な説だ。日本での受容の歴史が確認できていない。

台湾紹興酒をなんとかしようとした説

満州経由ではなく、台湾経由の説が一般的にはよく聞く話である。

  • 第二次大戦後、蒋介石による中華民国が建国され、紹興酒を作るようになる。

  • 日本は中華人民共和国とは国交はなく、国内のホテルなどにある高級中華では台湾紹興酒を出すほかなかったが、紹興酒に比べると酸味が強かった。

  • 誰が始めたかわからないが、その台湾紹興酒にザラメや干し梅、レモンなどを添えるようになった。

  • いまでも格式の高いレストランやホテルの高級中華ではその文化が残っていたりする。

ただ、この記事によると台湾でもすぐには紹興酒は作られなかったようである。

光復後もしばらくの間,台湾で紹興酒は作られていなかった。1952年,日本酒の経験を有する埔里酒廠(当時の第十一酒廠)がはじめて紹興酒の試作に成功し,広く消費者に受け入れられた。

吉田元「台湾の米酒, 紹興酒, 紅露酒」『日本醸造協会誌』1997 年 92 巻 8 号 p. 579-587

つまり、台湾紹興酒が日本に入ってくるのは1952年以降の話だ。
それから日中国交正常化する1972年までの20年の間に上記のような説が進行したのかもしれない。このあたりは根拠となる言説が見当たらないのでなんとも言えない。見つけ次第追記したい。

歴史について

大まかに先の大戦を区切りとして、戦前・戦中・戦後と分けて考えてみたい。

戦前

執筆中

戦中

ここは満州の話と重複する

戦後

当時中国との間に国交はなかったため、本物の紹興酒は直接は入ってこない
1957年2月21日の朝日新聞に「耳よりな中国酒再来」という記事があり、日本からのタラバガニ缶の輸出の見返りに試験的に中国酒(茅台酒や五加皮酒など)1、2万本が輸入され、翌月には紹興酒も予定されているということから、当時は紹興酒含め中国酒は貴重であったことがわかる。

他方で日本国内でも中国酒は製造されていた。昭和31年(1956年)に関東醸造(現在の永昌源)では老酒を製造、販売していた(残念ながら現在は製造されていない)。関東醸造はもとは旧満州酒造株式会社の引揚者の更生事業として始まっている。このあたり前章の内容と重なり、続いている。
また、協和発酵も「金雞牌」という老酒を製造していたらしい。

宝酒造の登場

紹興酒の普及に先陣を切ったのは宝酒造だろう。
一時期は紹興酒シェアNo.1と謳っていたこともある宝酒造は「塔牌」という紹興酒ブランドを日中国交正常化後の1976年に紹興酒を輸入し始めている(HPによれば1972年より中国酒を取り扱い開始とあるが社史によれば塔牌は76年から)。これが戦後初めての紹興酒の取り扱い開始といってよい。
これはひとから聞いた話だが、当時日本では台湾紹興酒が商社により輸入されており、これに対して中国当局はメーカーによる丁寧な紹興酒の市場育成をはかる思惑があったとされている。

この期待に応えるように宝酒造はTVCMをはじめ広告や飲み方提案、中国ツアーなどさまざまな販促キャンペーンや啓発活動を行っていった。

その後、中国国内での政策変更(改革開放)により、紹興酒の輸入にも変化が出始める。1988年にサントリーが「上海老酒」、翌89年にアサヒが「貴楽」(国内詰口)で参入。また並行輸入品も多くみられるようになった。協和発酵もこの間に「紹興酒」を輸入開始(正確な年号不明)、今も残るブランドの「古越龍山」は1990年にメルシャンによって輸入が開始、その後2008年に永昌源に移管される。

このように参入メーカーが増えたことで、シェア競争は激化し、ほぼすべての町中華には紹興酒がひとつくらいは置いてあるようになったのではないかと思う。

少し話は逸れるが、1997年8月2日の毎日新聞朝刊「中国産×台湾産 老酒戦」という記事では1975年では輸入量が中国産350KL、台湾産320KLだったが、宝酒造を通じて中国産の攻勢があり、この1年で東京では消費量が3倍になったと書かれている。それだけ紹興酒は伸長したということだろう。

参考文献

創立50周年記念史編纂委員会編『永昌源 50年の歩み』1998,永昌源
朝日新聞朝刊「耳よりな中国酒再来」1957年2月21年
毎日新聞朝刊「中国産×台湾産 老酒戦」1997年8月2日
坂本 隆之助「紹興酒釀造工場見學實記」『日本釀造協會雜誌』1936 年 31 巻 4 号 p. 316-318
瀬尾光平「研究ノート:「満州」における中国酒醸造」『曠々満州 第003号 「もの食う満州」』2015年 満州研究会
吉田元「台湾の米酒, 紹興酒, 紅露酒」『日本醸造協会誌』1997 年 92 巻 8 号 p. 579-587
宝ホールディングス株式会社環境広報部 編『宝ホールディングス90周年記念誌 : 1925-2015』2016 宝ホールディングス


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