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ゼロの紙さんへ


あの日は、雨が降っていた。

それは、梅雨期の、しとしと、と地面を鳴らし、土を潤し、草木を育てる、慈雨だった。

私は、車椅子で病院のホールへ移動して、窓の外を眺めていた。そこには中庭があって、濡れた草木は発光するように萌えていた。

ああ、美しい。

ただ、その生の感触は私のこころを奪い、蕩けてしまうほど見惚れた。

いつまでも眺めていたかったけれど、これから歩行訓練があるからとホールをあとにした。後ろ髪を引かれる、と昔のひとはうまいことを言ったものだなあ、とその言葉に感心しながら、病室へ戻った。

それからお昼をはさみ、歩行訓練を終えてホールへ向かうとまだ雨は降っていた。

私は、携帯を取り出して、はじめたばかりのnoteを開いてその中をさまよった。もちろんBGMは雨音だった。

しとしと、と耳をくすぐる。

そして、その雨音が導くように、ゼロの紙さんのnoteへ漂着した。



私は、言葉を失った。

そこには、寂しさや悲しみや喜びとも言い切れない、ざわざわした薄い膜のような名づけがたいこころの波動がていねいに書かれていた。私は、その文章にゆさぶられ、一気に魅了された。

ああ、美しい。

それは、慈雨を眺めるように何度も何度も拝読した。その文章は、地面を鳴らし、土を潤し、草木を育てる、慈雨のように私のぱさぱさしたこころへ、じわーっと染み込んだ。

言葉から温度を感じるなんて、久しぶりだったから、私は嬉しくなって、たまらずにゼロの紙さんのnoteをさかのぼって拝読した。



無線じゃなくて有線の言葉たちに、私は、泣きそうになった。なんで泣きたいのかもわからなくて、こころが追いつかないけれど、それは悲しいきもちじゃなくて、嬉しいきもちだということはわかっていた。

私は、いまだに、ゼロの紙さんの文章を拝読するたびに、本質的な美しさを感じ、それは唯一無二、だと確信している。いまも誰にも真似できないゼロの紙さんの世界観に、肩までとっぷりと浸っている。

ゼロの紙さんが、note三周年をお迎えになり、とても嬉しくて、その想いをnoteへ記しました。

あらためてゼロねえちゃん、三周年、おめでとうございます。いつもいつも、その存在に支えられております。ありがとうございます。そして、これからも、よろしくお願いいたします。













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