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〈シンガポール雑記帳〉その2

 若い人たちが群れ集うブギスの盛り場から、大きな道路を挟んで小高い丘の方へちょっと上がった先にあるナショナルーアーカイブ、その2階にオーダム・シアターはある。シンガポールのアジア・フィルム・アーカイブ(AFA)がもつ映画館だ。
 AFA自体のオフィスはナショナル・ライブラリーにある。この一年間シンガポールでいろいろと調査をしたいのでよろしくお願い申し上げますと、少しばかり前の3月末に挨拶に伺っていた。そのとき、職員のカレン・チャンさんにあれこれ説明をうけたのだが、加えて「いま、マイク・デ・リオンの特集上映会をやっているのでいらっしゃってください。トークイベントもあるのでそちらもぜひ」と声をかけてもらった。そのとき、この劇場の名前も教えてもらったのだった。恥ずかしながら、幾度もこの国を訪れているのに、知らなかった。

 自分が知らない映画館と出逢うというのは、この分野の特権的な悦びだと思う。
 グルメやファッション、ショッピングにとくに興味があるわけでもないのに、それでも海外についつい足を運んでしまう理由のひとつは、見たことも聞いたこともない映画館という場所に足を踏み入れることが、けっこうな愉しみになっているからでもある。使われている言語がわからないのに、その国の本屋をめぐってみるのとどこか似ている。
 どんな作品が上映されているのか、どんな観客が見にきているのか。どんな具合に鑑賞するのか。

 これまでにも、ニューヨークやベルリン、パリやロンドンのあっちこっちの映画館、シネコンにも名画座にもミニシアターにも、足を運んできた。ソウルや香港、台湾やバンコク、西安やウルムチに出かけたときも、土地土地の映画館を探ね、大いに快い刺激を受けたものだ。
 なんとなれば、そこには、映画を観にくる当地の人々の暮らしの一部が垣間見ることができるからであり、さらにはどんな表現やイメージを愉しんでいるのかを目の当たりにできるのだ。言葉がらわからないなどというのは、その悦びに比べればたいした話ではない。
 ニューヨークでの大学院時代に演劇研究の内野儀さんが彼の地に滞在されていた一年ほどのあいだ、毎週のように舞台芸術に連れて行っていただいたのだが、そのときに、舞台作品はもとより、その空間、その場所、そこに集う人々を直に触れることの面白みについてもたくさん手ほどきをうけたように記憶している。映画館は、自分にとって、そんな場所だ。
 ご当地グルメやブランド・ファッションのショッピングもそれはそれで面白いのだろうが、そうしたものとはちょっと別種のかたちの、未知との遭遇が隠れていそうな気配なのだ。

 とまれ、不勉強で名前を聞いたことがくらいしかなかったフィリピンの大監督の特集上映があるのだとうれしそう楽しそうにあれこれ話すチャンさんの熱意にほだされて、オーダムシアターにいそいそと出かけてみたわけだ。くだんの監督と、彼の特集上映プログラムを昨年末に組んだニューヨーク近代美術館映画部門のきゅーれーたーのトークイベントが催されるというのだから。

 足を踏み入れると、あらら驚いたことに、ミニシアターに漂う空気感が、日本のそれととっても同じ香りがした。
 ミニシアターというか単館というか小ぶりな映画館の物理的なしつらえ、壁やシートやスクリーンのしつらえが、どことなく似通っているというのもあるのだが、いやあ、シートに座る人々の佇まいが、なんだか日本と同じ空気感を漂わせていたのである。
 細い長身の体に何が入っているのか大きなリュックを担ぎヨタヨタ歩きながらもやたらに眼光は鋭い男の子。ピンクの髪に青色染め。五分刈り、長髪、パーマ。サンダルバキにアジア風パンツを履いた芸大生風。おそらくは映画を研究していそうな生真面目な大学院生風。そんなこんな面々だ。なんだか、筆者が勤務する大学の学部学生たちとそっくりだ。
 批評家っぽい中年男性や、こだわりジャーナリストよろしく帽子を斜に被った女性もいる。ついでにいえば、建物の外、階段入口付近でポロシャツにジーパンといった出立ちながらキリリと立ち姿がキマッていた、しかも、ここはシンガポールなのにタバコを憮然とふかしていた業界関係者と思しき若い男性が、トーク開始直前にするりと劇場に入ってきた。
 「女」「男」という名辞を書きつけてしまったが、正確にいえば、映画館のなかは、きわめてジェンダー・フリーというか、セクシュアリティ・フリーな様子だ。他の国々の単館でも、同じ様子が伺えるが、いっそう自由な感じもした。闊達な感じがした。

 映画館というのは不思議な場所で、それ自体がひとつの表情を湛えているような気がする。ハリウッドのブロックバスターをかけるシネコンも、もう古びてしまったかもしれないかつてのアートハウス(日本では名画座ということになろうか)、あるいはポルノ映画ややくざ映画がかかる下町のハズレにある映画館。今日のミニシアターも、それにふさわしい、他の映画館ではなかなか出会えない相貌を感じさせてくる場所なのかもしれない。
 オールダムシアターを訪れ、そういう想いを強くした。けれども、大事なのは、反復される感触のなかの微細な差異なのかもしれない。

 あえて、ちょっと挑戦的なことを書いてみよう。
 いささか強引に、藤木秀朗とアラステア・フィリップスが編集したJapanese Cinema Book(BFI, 2020)を補助線として使わせてもらおう。藤木氏のほかの仕事はリスペクトを記したが、こちらについては、少なからず辛口になる。
 この論集で打ち出されている、つまりはイントロダクションで提示されている理論的動向は、その出版年が2020年であるにもかかわらず、いまだ20世紀的な枠組みの中から抜け出せないでいるように見受けられる。そこで駆動せられている道具立てでは、なかなか上記のような状況を捉えることはむずかしいのではないかと思われるのだ。
 藤木ら編集者は、「日本映画」なるフレーズが、「日本」と「映画」という二つの言葉から成り立っているものの、この二つの言葉は、どちらとも概念上はなかなか規定しづらいものであることを指摘した上で、「日本映画」について語るむずかしさから論を起こしている。それは、至極真っ当な見地ではある。

 だが、編者たちがこの困難さに向けて打ち出す解決策は、どうか。
 それは二段構えになっていて、ひとつには、「日本」なるものを成立せしめる世界史(複数)コンテクストへの目配りを利かせること、ふたつには「映画」なるものを成り立たしめている各要素を分解すること、といった建てつけになっている。
 前者については、こんにちの批判的歴史研究(とりあえず、ポストコロニアルな研究やフェミニズム的な研究といっていいだろう)の視点を取り入れ、いわば、ナショナルなもの、男性視線を前提にして書かれてきた日本の歴史を批判的に複数化し、いわばトランスナショナル、脱構築的な観点から、その有り様をおさえておく必要があるという戦略になっている。
 だが、あえていえば、「日本」をめぐっての批判的接近のための切り口も、そうはいっても、少なからず古色蒼然たる感じがしなくもないと感じるのは筆者だけだろうか。ポストコロニアル研究もうたわれはじめて四半世紀を越え、いまではさまざまに省みられる側面も多い。あるいは、個別にいえば、『菊と刀』における日本映画の扱いの仕方や、ハルトゥーニアンらの論をかりたアメリカ産近代化理論の映画史記述への取り込み、などなどだ(少し手間味噌になって恐縮だが、これらはすでに筆者が『日本映画はアメリカでどう観られてきたか』(平凡社新書)でとりあげた論点である)。
 畢竟、たとえば、J・アンダーソンとD・リチーの『日本映画(Japanese Cinema )』は、それが大日本帝国の時代に日本人が関わった満州や朝鮮半島あるいは台湾の映画史の記述がごっそり抜け落ちていることに強く注意を促している。それはそれで重要な指摘であることは間違いない。だが、そうしたリチーとアンダーソンの論述がいったい何を欲望し何ゆえそうした隠蔽(柄谷行人)を施したのかについては掘り下げられることもなされず、ごっそり抜け落ちていることだけを指摘するのは、ポストコロニアルな研究としてもそれでおさめていいのだろうかと不安になってしまう。
 簡単にいえば、ポストコロニアルな研究の体裁をとりながら、「日本」はしっかりと温存されているのはないかとさえ感じられるのだ。
 他方、「映画」については、メディア・エコロジーの視点を取り入れ、感覚作用についても論じるのだと意気軒昂に銘打たれているのではあるが、じつのところ、論集のなかにそれらをめぐる文章は数えるほどしかないのではないか。
 「産業」「検閲」「撮影」「演技」「ジャンル」「観客」「撮影所」「占領」といった具合に、(映画という仕組みを形作っている構成要素ではなく)映画という20世紀の仕組みにまとわりついてきた諸側面こそが取り上げられることになっている。強弁を許してもらえば、そうした諸側面は、20世紀後半からの、アメリカ合衆国のリベラルな映画研究者が好んで使う考察上の道具立てであるように思われる(そうした道具立てがこんにち一新されつつあるのは、このnoteの「映画研究ユーザー図ガイド」で述べてきたとおりだ。)
 踏み込んでいえば、「映画」なる概念もまたほとんど温存されている。

 このイントロダクションで開陳されている、新しい日本映画研究の方向性は、結果、日本映画をめぐる日米のアカデミックな語りを学説史を通覧するように大雑把に辿り、それを(先に見たような20世紀末のアメリカ映画研究発の)トピック群を頼りに「アップデート」するという宣言で締めくくられている。
  ノエル・バーチもドナルド・リチーもアカデミックな言説群の始まりのカテゴリーに入れられていて、それはそれでどうなのかなあという感触もないわけではないし、ましてや(筆者が必ずしも同調するわけではない)蓮實重彦の仕事を「critic」という枠で語るのも(英語でいうcriticと日本語でいう「批評」があまりにフラットに並べられていて、首をかしげたくもなる。
「日本映画」をめぐる言説を歴史化しようとする企てがあまりにアカデミズムを軸にすすめられていて、まあこういう「映画本(cinema book)」はこういうものなのかと自分を納得させるしかないといった具合なのである。
 つまり、「日本」と「映画」という抽象概念を十分に換骨堕胎できないままに、アメリカ産の記述概念に横滑りして駆動せられている感が強いのだ。ポレミカルを覚悟でいえば、筆者の感触としては、そうであるので、「日本映画」についてはほとんど何も述べられていない。述べられているのは、映画研究をアメリカで勉強し、日本映画と研究対象にしてきた国内外の映画研究者による、英語圏での日本映画史研究に関わる比較的新しい世代の成果のリストアップにとどまっている、とみえてしまう(BFIから刊行されているものの、執筆者がアメリカで映画研究を学んだ書き手がずいぶん多いことをみよ)。

 どうしてこんなことになるのだろうか。
 編者自身もそれに気づいているふしがあるのだが、「日本映画」に対する批判的な身振りが、日本映画研究の知的実践のなかで繰り返されるサイクルというものがあり、そこに彼らもはまっているのではないか。もっと強くいえば、「日本」「映画」という概念を批判的に考察しようとする身振りそのものこそが、じつのところ「日本映画研究」ではないのかとさえ思えるのだ。
 筆者の印象では、編者たちが過剰なくらい何度も言及する吉本光弘の論にも同じ危うさを感じるところがある。「日本映画」を批判する吉本による一連の仕事には、簡単にいえば、こんなふうにみえもするのである。「日本」についてはその言葉に言及するやいなやナショナリズムではないかと批判をおこない、「映画」なるものをアカデミックに言及するやいなや、その分野の閉塞性を批判する、そういうパターンだ。さらにいえば、そうした「日本」批判を日本語の映画言説においてはおこない、そうした「映画」批判をアメリカの映画研究の言説におこなう、といった棲み分けさえ見られなくもない。

 いささか古びた、20世紀的な図式を用いれば、藤木と吉本は、次のような四角のダイアグラムをぐるぐる回る、典型的なアメリカ型リベラル日本映画研究の代表例なのかもしれない。

      日本    ↔︎     映画      
       ↕︎           ↕︎
      非日本    ↔︎    非映画  
 (多くの場合、欧米)  (多くの場合、言説)  

 要するに、「日本」の国民性批判をおこなう、アメリカの日本映画研究者は、英語圏でのポストコロニアルなアカデミズムでのみ通用する批判的身振り、でも実態はかなりの堂々巡りを繰り返しているだけにみえてくるのである。(宮尾大輔が編纂したOxford Handbookについてもいずれとりあげ吟味したい。)

 とはいえ、これは藤木や吉本に限った話ではない。ある意味、筆者自身、そうなのだ。
 前回、北米や欧米で学んだあと日本の言説のなかで勉強していると、〈グローバル・ハリウッド〉vs 〈オルタナ映画〉という単純な対立図式でなくとも、せいぜいがそこに〈欧州のアートシネマ〉や〈地域に根差しす娯楽映画〉という項目が入るにすぎない堂々巡りにどんどん陥りがちになってしまうということを記したが、まさに、それも上記の四角形の中に体よく収まってしまうような思考回路のように思える。

 オーダム・シアターで目にした光景は、こういったナショナルシネマ批判の堂々巡りとは少なからず異なった空気感である。ナショナルものに対する感性がより厚みがあり、よりダイナミックなように感じられたのである。

 ナショナル・ライブラリーで見つけた、Nadi TofighianによるBlurring the Colonial Binary: Turn-of-the-Century Transnational Entertainment in Southeast Asia (Stockholm University, 2013)は、なかなか興味深い世界史的コンテクストから論をおこしている。
 そもそもが、stetelessな共同体がたくさん成り立っていて、18世紀、19世紀、20世紀と、欧米の派遣国がさまざまに植民するなかで、ナショナルなものを形作ってきた国々(国境線)が並ぶ東南アジアだというのだ。
 さらには、statelessの共同体群を(のちにできる国境線など)軽々と渡り歩いていた巡回興業の人々、そして彼女ら彼らこそが写真や幻燈そして映画という装置を積極的に取り入れもしていた。文化的享受が、文化的自己意識を生むのだとしたら、そこにはあまりに多彩なものが巡回していたのだ。映画をはじめとする光学装置のオーディオ・ビジュアルな技巧が、創造的な感性の群れを大小さまざまな圏域で共有させていたということだ。

 オーダム・シアターさで感じられた自由さ、その闊達さは、もしかすると、そういう歴史を留めているものかもしれない。

 

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